松宮慎治の憂鬱

'04京都橘高校卒→'08大阪教育大学卒、私立大学に職員として奉職→'17広島大学大学院教育学研究科博士課程前期高等教育開発専攻修了,そのまま後期課程在学中。とあるきっかけ(http://shinnji28.hatenablog.com/entry/2015/01/10/050000)があって、実名でブログを始めることにしました。特に憂鬱なことはないのですが、大学職員仲間がタイトルを考えてくれたので、そのまま使います。

私立大学に対して競争的資金配分を行うことの問題点

私立大学に対する競争的資金配分について,いくつかのニュースが続いた。

www.nikkei.com
www.kyobun.co.jp

1つめは経済財政諮問会議における議論,2つめは昨年3月から行われてきた「私立大学等の振興に関する検討会議」のまとめ案の話なので,違うものだということには留意する必要がある。
しかし,いずれも私立大学の教育の成果に応じて資金を配分するという趣旨は通底している。
イムリーな話題であり,自身が考えてきたこととも関連するので,私立大学に対して競争的資金配分を行うことの問題点について,自分なりにコメントをしてみたい。

1 費用対効果が薄い

私立大学に対する公的資金の中心は,私学助成である。
一方昨年も話題になったところであるが,私立大学にとって私学助成の運営費に占める割合は,マクロに見れば1割程度に過ぎない*1
1割程度に過ぎない資金の配分方法を議論したところで,私立大学の経営にとって大きな意味があるとは思われない。
また,競争的に資金を配分するということは,配分されたお金に対して,政府の管理責任と大学の説明責任が増すことを示す。
従来の私学助成は,学生数や教職員数等,インプット中心に配分されてきた。近年競争性が増しつつあるものの,未だその大部分はインプットである。
そして,競争的になった領域には,その分だけ業務コストがかさむことになる。ここでいう業務コストとは,行政の監督と,それに対する報告書の作成等の双方である*2
管理責任と説明責任に伴って発生する業務コスト(デメリット)は,競争的に資金配分した場合のメリットを上回るだろう。

2 「教育の成果」は測定が困難である

既に巷で指摘されているところではあるが,教育の成果に応じて配分するといったときに,その測定方法が問題となる。
新堀(1987)*3では,教育の効果を測定する難しさについて次のとおりまとめられている。

①効果の概念が不明確である。それを明確にしてさえ、効果の範囲の決定は人によってかなり任意的にならざるをえない。
②同じように教育の概念があいまいである。そのため教育効果の範囲も一定せず、教育とその効果の関係を厳密に立証するわけにいかない。
③教育も効果も量的に測定しうる部分は極めて限られており、しかも量化不能な部分こそ最も重要である。
④効果を評価するためには評価基準や評価尺度が必要だが、それは評価主体(教育の対象たる学生や生徒も含む)、時代や社会によって大きく異なる。そのうえ、評価の方法も確立していない。
⑤効果の客観的判定や測定がより困難なのは、部分的効果より包括的効果であり、さらに上の分類でいえば、プラスの効果よりマイナスの効果であり、短期的効果より長期的効果であり、実質的効果より象徴的効果であり、顕在的効果より潜在的効果である。しかし、それだけにこれら判定や測定の困難な効果に常に留意する必要がある。

これらの疑義に,政府はいかにして答えうるであろうか。
これが研究の成果であれば,インパクトファクターや被引用文献数など,一定程度定量的な測定が可能である。
その研究の成果であってさえ,学問分野による評価の差異に関する問題を克服できていない。
それどころが,日本では選択と集中による配分政策によって,論文の生産性が下がっているのではないか,といった指摘すら存在するのが実情である*4

3 大学の行動に脱連結を促す

「教育の成果」に応じた競争的資金配分が推進されたとき,大学は現場の教育活動の改善よりも,「資金を獲得できるか否か」に注力することによって,自らのプレゼンスを高めようとする可能性がある。
建て前では,「教育活動の改善をしている」と言いつつ,現実には競争的資金の獲得が目的とした行動をとる,という状態である。
このように,組織が本音と建前を使い分け,正当性を担保しようとする現象を脱連結という。
脱連結は新制度派組織論における主要概念の1つであり,組織の公式構造と実際の活動が乖離することを指す。
Meyer & Rowan(1977)*5は,強い制度的環境にさらされた組織は,組織の公式構造と実際の活動を乖離させる(脱連結させる)とし,その典型として学校や病院を挙げた。
学校や病院のような非市場型組織では,確たる成果を明示するのが困難であるため,専門資格をもつ職員の採用や階層的な命令構造,標準的な予算措置等の近代的官僚組織の特徴を導入することによって,正当性を確保しようとするというのである。
大学も,学校や病院のような非市場型組織である。このため,競争的資金を獲得し,正当性を担保すること自体が目的化し,外形的な条件整備ばかりに気をとられることによって,現場の教育活動の改善がなおざりにされうる。


私立大学に対する競争的資金配分が推進されたとき,想定できる未来のシナリオは,脱連結行動がもたらす現場の教育改善の捨象にとどまらない。
たとえば,多様性の減衰である。
大規模大学と小規模大学,地方の大学と都会の大学,単科大学と総合大学が,それぞれ競争的資金の獲得を目的に,同一の取組みを行うようになり,同型化することは考えられないか。
私立大学は,国立大学に比べてはるかに多様である。私学に勤務する私自身も,知らない大学の知らない取組みが沢山ある。
他方,日本の大学生の7割以上は,私立大学に通っている。このことは,大学生の教育という観点でいえば,量的には私立大学が日本の高等教育を支えていることを意味する。
それゆえ,私学の同型化が進めば,学生の進学機会が制限されてくる。
A大学にはなじめないが,B大学では頑張れそうな気がする,といった多様性が失われてしまうからである。
特に,地方の私立大学は日本の高等教育の進学機会に大きく貢献していることを忘れてはならない。こうした地方の私立大学は,小規模で,かつ目の前の学生のために独自の取り組みを積み重ねていることが多い。
小規模な地方の私立大学が,総合大学と似たような取組みを促され,活力を失ってしまうようなことがあってはならないと考えている。
ではどうすればよいのか?という解は,私自身もまだ持ちえていない。
国際的な競争下にあっては,国を挙げた同型化が最低限の質保証をもたらす,という考え方もありうる。
また,文部科学行政としては,財務省からの予算獲得のために,さまざまな戦略を打ち立て,目先を変える必要もあろう。
他方で,個々の関係者(たとえば政治家,官僚,大学関係者等)がそれぞれ努力しているにもかかわらず,総体としてはおかしくなってしまっている,というような合成の誤謬のようなものも感じている。
誰が悪い,彼が悪いといった発想はポジショントークと区別がつかぬゆえ,避けねばならぬ。
こうしたシステムとしての問題を少しずつ掘り下げていきながら,私学振興に微力ながら貢献したいと思っている。

*1:私大への国の補助、10%割れ 44年ぶり 授業料高く:朝日新聞デジタル

*2:いわゆる「主人-代理人問題」として捉えることができる現象である。

*3:新堀通也(1987)「教育効果のとらえ方」市川昭午編『教育の効果』(東信堂),pp.4-21.

*4:ネイチャーの「日本の研究力失速」記事と研究開発費9千億円上積みニュース - ある医療系大学長のつぼやき

*5:Meyer, J. W. & B. Rowan (1977). Institutionalized Organizations: Formal Structure as Myth and Ceremony. American Journal of Sociology, 83(2), 340-363.