松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

修論は出したけれど……

1月末に修士論文を提出した。
昨年,他大学の友人が同様の状況にあって,提出後にFacebookで素晴らしい文章を書いていたのだが,自分はそのようなものを書けそうにない。
1月中旬に,法人にとっても自分にとってもきわめて重要な仕事が入ってきたこともあって,執筆をうまく追い込むことができなかった。
このようなときに仕事を優先するのは当然なのだが,もう少し早くその仕事のことがわかっていれば,予定をうまく調整したのに…という悔しさがあった。
とはいえ提出はできたのだが,自分の目指すところは単に提出することではなかった。その意味で後悔は大きい。

今回勉強になったのは,自分は体力・精神的にも,環境的にも,「重要な〆切の前に追い込むことは難しい」ということだ。
だから,意図的に自分でハードルを設けて,あらかじめ追い込んでおく必要がある。
そしてその〆切は,できるだけ公式のものが望ましい。そういうことを考えた。
だから,やはり自分の場合はインプット→アウトプットではなく,アウトプット→インプットのサイクルの方が,やはり望ましいようだ。
アウトプットの機会を設けることによって,それに向けてインプットをする。これがいいと改めて感じた。

自分がこんなことを言ってはいけないのかもしれないが,同業の友人に,あまり気軽に「大学院行こうぜ」とは言えない。
件の友人は最後をその言葉で締めていた。
それを否定したいわけでは当然なくて,むしろ尊重したいと思っているし,Facebookの文章からはその説得力があふれていた。
一方少なくとも,自分の行い,姿勢,生活,この文章からは,そのような説得力は読み取れまい。
30歳前後の時間を大学院進学に使うということは,大きな人生の選択であった。
その選択は,やはり自分は誰も彼もには勧められない。行動選択の結果責任をとれないからだ。
もちろんいいこともある。しかしそれ以上に,苦しいことの方が多い。それは学生としての研究だけではなくて,仕事をする上でも苦しいことが増える。
その苦しさを引き受けるか引き受けないかという選択が,大学院に行くか行かないかをわける。

幸い,自分は職場や同僚の理解とバックアップを受けて通学できた(たとえば,異動したあとも通学できるように学長決裁をいただくなど)。
しかし,そうしたバックアップが全く得られない職場もあるだろう。
そういった大学では,自分よりはるかにしんどい思いをすることは想像に難くない。
だから,やはり誰も彼もには勧められない。
「行ってよかった」と言えるかどうかも,今はまだわからない。
そう言えるように,事後的に導いていくしかない。