松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

私立大学は,経営・運営の結果責任を自ら担保す​る必要がある――「私大への国の補助、10​%割れ 44年ぶり 授業料高」のニュースについて――

標記のニュースを拝見して,思ったことを書いてみたい。
1次ソースが見つけられなかったので,やや苦しいのだが。

私立大学の経営破綻は法人の自己責任

ここでいう「補助」というのは経常費補助金のことだと思うが,それ以外にも色々個別の補助金があることにまず留意する必要がある。
また,10%という割合を,個別機関の差異を無視して集合値で捕捉し,議論することにも問題がある。
記事中に記載されている「2分の1補助」というのはあくまで理念形であって,これまで一度も達成されたことがなく,事実上意味をなしていない。
その上でいえることは,これだけ補助の割合が減ってしまうと,補助をする主体である文部科学省や私学事業団の役割も,同時に縮小されていくだろうということである。
これは元経済産業省の宇佐美典也氏も仰っていたことであるが,これからの時代,中央政府(行政機関)が果たす役割は,きわめて限定的にならざるをえない。
したがって,各私立大学は中央政府が示す方針に対して,「最終的には自己責任」という腹を括ってアプローチする必要がある。
破綻しても,その責任は潰れた法人が負うことになる。

私立大学の数は多すぎるのか?言及されない論点

ヤフーニュースのコメントを拝見すると,「とにかく数が多いので,減らすべきだ」というものばかりであった。
大学の規模が適正かどうかというのは,かなり難しい問題である。多すぎるかもしれないし,少なすぎるかもしれない。
正直いって,私にも「多いか,少ないか」ということの答えは出せない。
しかしながら,「減らすべきだ」といった適正規模の議論が行われる際に,全く無視されていることがある。
それは,進学の機会や格差の問題である。
主として教育社会学の分野では,伝統的に大学の進学機会が議論されてきた。
すなわち,大学の進学機会は平等なのか?社会階層や地域の別にかかわらず,公平な進学機会が保障されるためにはどうすればよいのか?という考え方である。
近年の大学評価では,こうった視点は全く考慮されていない*1
「私立大学を減らすべきだ」と簡単に言ってしまう方は,おそらくいわゆる威信の低い大学を想定しているのだろうが,そういった大学が地方においては大学の進学機会の確保のために貴重な役割を果たしていることがある。
出身地や階層,親の年収にかかわらず大学に行けるか?という観点も踏まえた上で,適正規模を議論・検討する必要があろう。

「私大への国の補助、10%割れ 44年ぶり 授業料高」

私立大学の運営費用に対する国からの補助金の割合が2015年度は9・9%になり、44年ぶりに10%割れしたことがわかった。国会では補助割合2分の1をめざすことが決議されているが、財政難に加え、私大の定員増などで学生1人あたりの補助額もピーク時の6割に減っている。その分、授業料が高くなり、家計の負担は増している。
日本私立学校振興・共済事業団(東京)の推計によると、私大の人件費や教育研究費、光熱費など大学運営にかかる主要な「経常的経費」の総額は、15年度に3兆1773億円(速報値)だった。これに対し、事業団を通じて877の私大(短大、高専も含む)に渡された補助金は総額約3153億円で補助割合は9・9%になった。10%を下回ったのは1971年度以来。
文部科学省の統計では、短大などを含む私大の学生数は70年に約128万人だったが、15年には約222万人に増えている。同事業団によると、私大生1人あたりでは、国からの補助金は81年度が24万1千円とピークで、15年度は15万6千円だった。

朝日新聞社

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160919-00000015-asahi-soci

*1:といったことを大学院で学んだわけであるが,ここ1年くらいの学びをあたかも以前から知っていたようにドヤ顔で話すというのは知識を定着させるための常套手段なので,ご容赦いただければ…。