松宮慎治の憂鬱

'04京都橘高校卒→'08大阪教育大学卒、私立大学に職員として奉職→'17広島大学大学院教育学研究科博士課程前期高等教育開発専攻修了,そのまま後期課程在学中。とあるきっかけ(http://shinnji28.hatenablog.com/entry/2015/01/10/050000)があって、実名でブログを始めることにしました。特に憂鬱なことはないのですが、大学職員仲間がタイトルを考えてくれたので、そのまま使います。

学生に「来年」はない。そして本当はぼくらにもない。

実習先の子どもたちは,その単元を一度しか習わない

先日,4年次生を対象に,教育実習の反省会(報告会)を行った。
この会は,教育実習を終えた4年次生100人近くが,マイクをもってリフレクションを行うものである。
3年次生も出席し,4年次生のリフレクションが終わったあとで,彼らに質問することができる。
http://www.kobegakuin.ac.jp/facility/tec/news/headline_detail.cgi?kanriid=201607026

その際,4年次生のコメントの中に何度か同じように出てきたキーワードがある。
彼らの言葉を借りれば,

自分たちは実習生でその授業を担当するが,子どもたちはその単元を自分たちが教えるその1回しか習わない。だから責任が重い。

ということだが,これはすなわち授業の「一回性」であると言うことができる。

大学における学生と教職員の関係にも,同じことが言える

実はこのことは,大学の教職員にとっての学生,という視点からも同じことがいえる。
大学4年次生の4年次生というその時間は,たった1回しかない。2回目はない。
これは,3年次生だろうが2年次生だろうが同じである。
大学の事務局の論理では,「来年はこうしよう」という話がよく出てくる。大学の仕事が一年周期なので,そうなるのは理解できる。
しかしながら,「来年はこうしよう」という改善案の先送りは,既述の理由から避けた方がいいと思っている。
良い案なら,今すぐやれ。今年の学生と,来年の学生は同じではない。
学生にとっての今は今しかないので,良いと思うことは今すぐやるべきだと考えている。

そして本当はぼくらにもない

ところで,以上の議論は,支援を提供される側の一回性に着目している。
支援を提供する側の一回性が,切り捨てられてはいないだろうか?
つまり,教育実習生を教える4年次生の側にも,学生を支援する教職員の側にも,「来年」は存在しない。
あたかも,ぼくらにはいつも「来年」があるように感じてはいまいか。
本当はぼくらにも,「来年」などというものは存在しないにもかかわらず。
悲しいことに,年をとると若い頃よりも時間への感覚が鈍くなってしまう。
そのことによって,知らない間に何年も過ぎ去っている,という状態にはなってはいまいか。
冒頭の教育実習の反省会を契機に,そのようなことを思い,考えていた。