松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

学生に「来年」はない。そして本当はぼくらにもない。

実習先の子どもたちは,その単元を一度しか習わない

先日,4年次生を対象に,教育実習の反省会(報告会)を行った。
この会は,教育実習を終えた4年次生100人近くが,マイクをもってリフレクションを行うものである。
3年次生も出席し,4年次生のリフレクションが終わったあとで,彼らに質問することができる。
http://www.kobegakuin.ac.jp/facility/tec/news/headline_detail.cgi?kanriid=201607026

その際,4年次生のコメントの中に何度か同じように出てきたキーワードがある。
彼らの言葉を借りれば,

自分たちは実習生でその授業を担当するが,子どもたちはその単元を自分たちが教えるその1回しか習わない。だから責任が重い。

ということだが,これはすなわち授業の「一回性」であると言うことができる。

大学における学生と教職員の関係にも,同じことが言える

実はこのことは,大学の教職員にとっての学生,という視点からも同じことがいえる。
大学4年次生の4年次生というその時間は,たった1回しかない。2回目はない。
これは,3年次生だろうが2年次生だろうが同じである。
大学の事務局の論理では,「来年はこうしよう」という話がよく出てくる。大学の仕事が一年周期なので,そうなるのは理解できる。
しかしながら,「来年はこうしよう」という改善案の先送りは,既述の理由から避けた方がいいと思っている。
良い案なら,今すぐやれ。今年の学生と,来年の学生は同じではない。
学生にとっての今は今しかないので,良いと思うことは今すぐやるべきだと考えている。

そして本当はぼくらにもない

ところで,以上の議論は,支援を提供される側の一回性に着目している。
支援を提供する側の一回性が,切り捨てられてはいないだろうか?
つまり,教育実習生を教える4年次生の側にも,学生を支援する教職員の側にも,「来年」は存在しない。
あたかも,ぼくらにはいつも「来年」があるように感じてはいまいか。
本当はぼくらにも,「来年」などというものは存在しないにもかかわらず。
悲しいことに,年をとると若い頃よりも時間への感覚が鈍くなってしまう。
そのことによって,知らない間に何年も過ぎ去っている,という状態にはなってはいまいか。
冒頭の教育実習の反省会を契機に,そのようなことを思い,考えていた。