松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

生存確認としてのブログの効用

全私教協の大会時に,何人もの方に「ブログ見てるんですけど…」と言っていただいた。
もしかしたら言いづらい方もいらっしゃるかもしれないが,個人的には言っていただいた方がありがたい。
面白いのは,人によって関心のある話題が違っているということである。
意外にも見られているのが,読書記録である。
読んだら読み捨てではなく(まあそうなっているものもあるが),できるだけ読んだことを記録するために書いているだけのことだが,カバーしているゾーンが近いと,「こないだあれ読んでましたよね」みたいなことになるようだ。
実は以前にもそうしたことがあったし,逆にこちらも驚くことがある。「え,そんなの趣味があったんですか…」みたいな感じである。
読んでいる本すべてを報告できているわけではないので,やはりできるだけアップしようと決意を新たにした。

その上で感じたのは,生存確認としてのブログの効用である。
全私教協の大会のときには,一年ぶりにご挨拶できた方もいた。
たとえばツイッターフェイスブックやブログ等,何らかのSNSをされていて,そこでバーチャルな繋がりのある人もたしかにいる。
そういう方とは,なんとなく会っていなくても,平時から緩やかにつながっている感覚がある。
一方,全員がそうしたツールを使っているわけではもちろんない。
SNSが苦手だったり,嫌いな方もいたりする。
苦手や嫌いではないけれども,やるのが面倒というパターンもある。
そうしたときに,自分の生存動向をこのブログで見ていただく,というのはそんなに悪いことではない気がしている。
年1回しかおお会いしない方の中にも,お世話になった方は多くいらっしゃる。
その全員に自分の近況を報告し続けることは難しい。
しかしながら,本来はそうあるべきだと思っている。年賀状等でもいいけど,年1回では味気ない。
いや,自分の近況等に需要はないかもしれないが,年1回お会いしたときに,「お元気でしたか」「はい,元気です」といった程度のやりとりで終わるのはあまりに惜しい。
もし自分の近況を常に把握しておいていただけたら,少なくともその部分の話題は省くことができる。
または,そこから話題が展開されたりする,フックの役割をはたしてくれることもある。

コミュニケーションのありようとして一方的な感じにはなってしまうが,ブログは遠く離れた人に生存を報告してくれるツールでもあるな,ということを感じた次第である。