松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

人材育成における「たまたま問題」

http://shinnji28.hatenablog.com/entry/2015/09/25/050000

上記の会で、登壇をお願いした中元さんが「たまたま問題」を取り上げておられた。
「たまたま問題」というのは、
「たまたまタイミングがよかったから」
「たまたまいい上司に出会ったから」
というように、偶然の要素によって人が育つ、という状態の限界をさす。
偶然の要素に頼っていたら、全体として伸びていかないというのは、感覚的にはそのとおりである。
一方、全く同じ現象に巡り合ったとしても、「運がよかった」「これはチャンスだ」と思える人と思えない人がいる。
考えるに、「自分はたまたま運がよかったのだ」というように、偶然を味方につける素質のあるやなしや、が重要なのではないか。
つまり、「たまたま問題」によってその人が伸びているのは、実は偶然ではないという仮説である。

私自身、周りの多くの人からチャンスを与えられ、支援いただいてきた。
ここ2年くらいは、自分が与えられてきたものを返したいという気持ちがあって、職場の内外にかかわらず、誰かに機会を提供することを意識してきた。
ところが、機会を提供する側になってみると、その機会に2つ返事でのってくれるケースというのは、驚くほど少ないことに気づく。
もちろん、機会の提供を押しつけがましくしたくはないし、それ自体がいいことだとも思っていない。
しかし、機会を提供する側もヒマでないので、提供されるタイミングそのものが、一度かせいぜい二度くらいしかないかもしれない、というリスクはあまり想像されていないように思う。
「たまたまタイミングがよかった」といえる人は、自分自身で機会をいいタイミングととらえただけのことである。
その機会を他方でスルーした人もいるだろう。
「たまたまいい上司に出会った」といえる人は、その出会いを自分にとって有益なものにできただけのことである。
その上司を他方で批判した人もいるだろう。

このように、「たまたま問題」は実は偶然ではなく、個人の感性に依存するのではないかと思っている。
仮にそうであるならば、そういった個人の感性はどのように養えるのか、という問いに気づく。
この答えは、まだよくわからない。
「これは違うだろうな」というのは、たとえば動機や危機感である。
やる気があるとか、このままでは職場がつぶれるかもしれないという思いとか、
そういった情念的な要素は、変動可能性が大きすぎる。
自分にとってそれは何か、ということも含めて、少し継続的に考えてみたい。