松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

人が足りている組織なんてあるんだろうか

「人が足りない」という声はよく耳にする。
うちの職場だけじゃなくて、全く違う職種の友人もよく言っている。
では、逆に「人が足りまくっている職場」というのは存在するだろうか?
かりに存在しないとなれば、「人が足りない」という言説そのものが意味をなさなくなる。
どこかから人を補充するということができないからだ。
足りまくっている場、つまり余剰を供給できる場がない以上、「こっちに人をくれ」という要求は成り立たない。
人を調達できる場がない。
したがって、足りない場同士で消耗戦を繰り広げることになる。
「こっちに比べればマシだろう。だからくれ」というように、どっちも人手不足であるという問題はスルーされて、相対的な比較に論点が矮小化される。

どこの職場も人が足りない、となったとき、方法は2つしかない。
人口を増やすか、仕事のやり方を変えるか。
前者は端的にいえば移民である。若い人が余りまくって仕事がない、というような国もあるので、そういうところから移民を受け入れる。
後者の命題は、生産性の向上となる。いかに価値の低い仕事を切って、付加価値の高い仕事に注力できるか。
価値の低い仕事をきれない場合、いつまで経っても生産性が上がらないので、苦しいままになるのは自明である。

さらにいえば、「頭数が揃っていればできる仕事」は、本質的には頭脳労働ではなく肉体労働である。
もちろん、私は肉体労働より頭脳労働の方が上だということを言いたいのではない。
とはいえ、社会が発展しきったあと、緩やかに縮小傾向に向かう局面にあっては、当然肉体労働よりも頭脳労働の比重が大きくなってしまうのだ。これは仕方ない。
そうしたときに、肉体労働の発想、すなわち頭数が揃えばなんとかなるというような仕事の仕方は段々できなくなっていく。
「もっと人がいればできるのに」と感じるような仕事が、目の前の課題にどのような意味を付けてくれるのかはよく考える必要がある。
大学の仕事は、やはり頭数ではなく頭の内容がとりわけ重要になる。
したがって、極論と批判を受けるかもしれないが、大学における「人が欲しい」「人が足りない」言説に本質的な価値はない。
個人が力つけ、工夫を重ねることでなんとでもなる仕事ばかりである。
ただ、工夫をするのが面倒である、そのように頭を働かせることが億劫であるといった場合には、人手不足を甘受するしかない。
甘受するしかないが、甘受した場合の「人が足りない」言説は、結局は単なる愚痴であり、工夫からの逃避であると断じられてもやむをえないのである。