松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

柳沢なんてたいしたことない

幼い頃に母を亡くし、富山県でラーメン屋を営む父に育てられる。
富山第一高校時代にB代表(現在のオリンピック代表)に選出され、カップ戦で3得点をマークする。
その後、高校卒業時にJリーグ13チームからオファーを受け、鹿島アントラーズに入団。
背番号にはゲルト•ミュラーのようになれという願いを込められ、13番をつけられる。
その翌年には8得点で新人王となる。
フランスW杯の代表には、「ゴールへの執着心がない」として惜しくも選出されなかったが、同年22得点をマークする。
2001年の国際親善試合対イタリア戦では、稲本からのロングパスを右足ダイレクトボレーで決める、ブッフォン棒立ちのスーパーゴールを演出。
2002年の日韓W杯では中田英寿から「MVP」と称えられる活躍を見せ、翌年セリエAサンプドリアに移籍。
さらに翌年、メッシーナに移籍し、コッパイタリアでの活躍によって地元メディアに「海峡の王」と呼ばれる。
2006年に鹿島アントラーズに復帰し、開幕戦でハットトリックを見せるが、直後に骨折。
ドイツW杯への代表選出が危ぶまれたが、ジーコの信頼と奇跡の回復力で代表に選出。
直前の親善試合対ドイツ戦でアシストを決め、本大会ではFWとして2大会連続で先発出場するも、決定機にゴールを決められず失意のうちに大会を去る。
2007年、鹿島アントラーズで新主将に就任するが出場機会が乏しく、翌年京都サンガに移籍。
移籍前の最後の試合、天皇杯決勝でその年批判され続けていたブラジル人選手、ダニーロのゴールをアシストし、クラブに11個目のタイトルをもたらす。
試合終了後にスパイクをスタンドに投げ入れるパフォーマンスで鹿島のサポーターに別れを告げた。
移籍した京都サンガでは日本人最多の14得点を決め、ベストイレブンに選出。
2010年に戦力外通告を受けるが、最終戦でサポーターから「俺たちはまだサンガのヤナギが見たい」という横断幕を掲げられる。この年、J1で6人目となる100得点を達成。
京都サンガ在籍中、当時サンガU-15に所属していた岩元颯オリビエ(現ジュビロ磐田)と同じ病院に偶然入院していたため、毎日のように励ます。
2011年にベガルタ仙台に移籍し、いきなりキャプテンに指名されるが、開幕前にあの東日本大震災が起きる。
自分にも何かできることがないかと考えた柳沢は、クラブを通すことなく、個人的に自ら役所に電話し、ボランティアに従事する。
のちに、「ぼくが仙台を選んだのではなく、仙台がぼくを選んでくれた」と語る。
2014年、J1での17年連続ゴールを挙げ、契約延長のオファーを受けるも、最終節の2日前に引退を発表。
最終戦対広島戦では、公式戦なのに30分の出場時間を与えられ、試合終了後、アウェーであるにもかかわらず、両チームの選手から、彼を象徴する背番号13と同じ回数だけ胴上げされる。

そんな、所属したすべてのチームの選手やスタッフ、サポーターに愛された、どこにでもいるサッカー選手。それが柳沢敦