松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

発言は個人の責任であり、所属する組織の見解を代表するものではありません〜云々

標記のような文言をツイッターやブログのようなSNSのトップに記載しているケースがあるが、私はしていない。
これは考え方次第かもしれないが、私はそのようなことを掲載したとて、責任を逃れられるとは思っていない。
私がどこで働いているかということは、このブログやツイッターがなかったとしても、検索すればわかる時代である。
そうした時には、「発言は個人の責任で、所属する組織を代表するものではない」と言っていたとしても、必ず紐付けられることになる。
学外でさまざまなお話をさせていただくときには、松宮という単体で認識されることはなくて、神戸学院という職場とセットで覚えられる。
その意味で、私と所属組織とは、自分がどう思うかに関係なく、他者にとっては不可分なものである。
したがって、自分というキャラクターが常に神戸学院の一部となることは意識せざるを得ない。
「所属組織は関係ありません」は通用しないと考えている。

あまり政治的なことを書くのはよくないかもしれないが、このようなことからはかつての首相の靖国参拝問題を連想する。
マスコミが首相に対して、「今のあなたは、公人ですか、私人ですか」と問うあれである。
「今日は私人として参拝している」と答えるような欺瞞が、その立場で許されるだろうか。
自分の気持ちが私人としての行動であったとしても、周りは公人として捉えるであろう。
一定の社会的な立場を得るということは、公人と私人の区別が明確にできなくなる、ということでもある。
私のように仕事とプライベートをわけないような働き方をしていても、そのことは同様である。
仕事と仕事以外の線引きはもはや難しいし、周囲もそのように慮ってはくれまい。
アルバイトの身分でふざけてツイッターに投稿すると、炎上して勤務先が謝罪する事態に発展する時代である。

もちろん、ラインコントロールの難しさはある。
私は職場の名前を利用し、職場は私の能力を利用する。
このような共犯関係が望ましいと考えているが、何事も行き過ぎはよくない。
互いに迷惑をかけるレベルまでラインを踏み越えることには問題がある。
ラインコントロールをうまく行うためには、良くも悪くも場の空気を読んだり、場に合わせた言動の選択が必要である。
この点はまだまだ未熟だと自覚していて、常に「言い過ぎていないかどうか」「かといって言わなさすぎてつまらなくなっていないかどうか」を気にしている次第である。