松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

「忙しい」とは何か

ふだん「忙しい」という言葉を口に出すのはダサいと思って避けているが,さすがに年度末と年度初めは超多忙である。
(以前は,「忙しい?」と聞かれたら「ヒマですよ」と答えていた。しかしそれはそれで問題がありそうなので,最近はどう答えていいかはかりかねている)
忙しい。
同業者のみなさんも基本的には同様であろうと思っている。

「ヒマになる」ことはもうないだろう

ところで,忙しい忙しいというが,それはいわば当たり前である。
自分が忙しくなくなること,すなわち「ヒマになる」ことは二度とないだろう。
そうなったら,それは干されたということだ。
忙しい中でも成果を出す,忙しい中でも心身の健康を保つ,忙しい中でも余裕をもつ,忙しい中でも余裕があるように見せる。
このような,忙しい状態にあることを前提とした日常の営みが必要なんだろう。
「ヒマになる」ことはもうない,と考えると,非常にイヤだし,苦しいが,仕方がない。
休みたい,バカンスがほしいと思うが,これについても忙しい中で休んだり,バカンスをとったりする能力が求められよう。
今の一番の悩みは,家事が全然できないことだ。
職場でも,広島でもなんとか体裁を保っているが,家のなかはむちゃくちゃである。
こうした生活に根付くようなところは,もうちょっと考えて改善しなければならないと考えている。

忙しさの中身が問題

加えて,忙しさの中身が問題だ。
その忙しさは,意味のある忙しさなのか。
単なる作業で忙しいのか,価値を生む仕事をしているから忙しいのか。
経験的には,後者であれば「忙しい」と感じることはほとんどない。
充実しているからだ。
「忙しい」と感じるのは,大体前者のとき。
価値に繋がらない作業,手数があれば誰でもできる仕事,これは自分の中では仕事の定義に入れていない。
単なる作業である。
作業に忙殺されていると「忙しい」と感じるようになる。
その意味で,忙しいと思うかどうか,というのは,自分が意味のある,付加価値の高い仕事ができているのかどうかを判断するバロメータになりうるともいえる。

以上のことを意識しておかないと,何事も「忙しいからできない」で済んでしまう。
忙しいかどうかは,成果や価値を生めるかどうか,という事実とあまり関係がないと思っている。
優れた人は,忙しいかどうかに関係なく価値を出す。
さらにいえば,優れた人は「忙しい」ともあまり言わない。
そういうことを自分に言い聞かせつつ頑張ろうと思う。