松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

英語論文が読めなさ過ぎて泣ける―サボったことは必ず返ってくる。因果応報―

高校生の頃,授業中は基本的に寝ていた。
「授業なんて聞かなくても,予習復習なんかしなくても,自分で勉強すれば点はとれる」と思っていた。
「文句があるなら,俺が聞きたくなるような授業をしてみろ」と思っていた。
テスト勉強は一応していたけど,全部一夜漬けだった。
模試の前だけは,結果が低いとカッコ悪いと思って1週間前くらいから勉強した。
といっても,好きな教科だけ。
このくらいのやり方で,所属する学校の中でカッコ悪くない程度の成績は出た。
しかし,当然のことであるがそのようなやり方で身につくはずもない。

英語の先生が,河合塾だかなんだかの模試が終わったあとに,「この中には,小手先だけで点をとるやつもおる」みたいなことを言っていたのを覚えている。
そのとき,「もしかしてこれは俺のことかな」と思った。ただ,同時に「点がとれればええやろ」とも思った。
英語は嫌いな教科だった。
何が嫌いって,仮定法過去だとかなんとか,言葉を理屈で覚える感じが苦手だった。
嫌いな教科だったので,全然勉強もせず,授業中は寝ていた。
大学に入ってからも同様だった。「語学は嫌い」とかなんとか言いつつ,当てられる直前で辞書を調べて適当な和訳を考える,という高校時代からのおなじみのスタイルを変えなかった。
語学が嫌い,と言うようになったのは大学に入ってからだ。中国語をやらなければならなくなって,英語を勉強するときと同様のストレスを感じた。要するに自分は語学が嫌いなのだと理由づけた。
ぼくにとって言葉というのは,自然と喋れるように,使えるようになるもの,という感覚が強くあった。
日本語の文法が苦手でなかったのは,既に喋れるようになってから,事後的に学んだからだ。
英語その他も語学も同様であるべきではないか,言葉というのはそういうもんじゃないか,と幼いながら思っていた。
とはいえ,英語をシャワーのように浴びてみるという根性もなくて,ひたすら逃げていた。

こうしたツケが,今になって問題になっている。
英語論文が全然読めない。
最大の問題は,時間がかかりすぎることだ。
当たり前のことだが,英語論文を「読む」ことは単なるスタートに過ぎない。
重要なのはその先の解釈や,自身への応用であって,「読む」のはその条件に過ぎない。
単なる条件を満たすのに,時間がかかりすぎる。
さらにいえば,母国語で論文を読むときのことを考えてみればわかることだが,「読める」ということと,「内容を理解できる」ということの間には大きな差がある。
読めても,意味がわからない。
自分はさらにその手前,読むだけのことに時間がかかりすぎる。
サボったことは,必ず返ってくるのだ。
苦手だ,嫌いだと逃げずに,与えられた方法が合わないと思ったら,自分で色々やってみればよかっただけのことだ。
そのような発想が,かつての自分には欠けていた。
そうしたツケが,今の自分に返ってきて,非常に困っている。
困っているが,実力がないなりに,やるしかないのもまた事実である。