松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

「先行研究を鵜呑みにしない」「批判されたときに簡単に引いてはいけない」

この2つは,大学院に進学して先生方から言われて印象に残った言葉の一つである。
前者については,課題の文章を書く中で指摘されたことである。
端的にいえば,「君は先行研究の言っていることを鵜呑みにしすぎているね。もう少し批判的に見た方がいいよ。実際,言ってること間違ってるかもしれないよ」という指摘であった。
実は自分が先行研究を批判的に引用しないのには理由があった。
かつて査読落ちした投稿論文で,「先行研究を批判的に引用するときはもうちょっと慎重に」という指摘を受けたトラウマがあるからである(笑)
以前の私は随分傲慢だったので,いとも簡単に先行研究を批判的に言及していたのである。
しかしながら,やはりバランスは大事なのだろうと気づかされた。とはいえ,フェアに批判を行うというのはかなり難しい作業で,めちゃくちゃ苦労している。
また後者については,自分が指摘を受けたわけではないが,他の院生が言われていてなるほどと思ったことである。
自分の議論に批判的なコメントがつくことは,大学院の授業でよくある。
そうしたときに,簡単に「たしかにそのとおりですが…」と受容せず,きっちりディフェンスをしろという趣旨であった。
一般的には,何か批判的なことを言われたときにはいったん受け止める,受容するということが望まれるが,研究の場合はそうではないということが理解できた。
すなわち,受容>防御ではなく,受容<防御なのである。
まず受容するのではなく,まず防御をする。
それが「作法」である,という理解を私はした。

こういった学びが仕事でも時々思い出される。
たとえば先日の博士論文の公聴会でも,審査委員の先生方からかなり厳しい指摘が出たときに,「いじめられている」のではなく,研究の作法に則って攻撃しているということが理解できる。
学生さんに対しても,「頑張って防御しいや!そない素直に受容したらあかんで!」と感じることができる。
そして,そういう状態がむしろ望ましいことがわかるし,逆に厳しい指摘が全くでないと,「それはどうなのかな」と思うことができる。
たぶんこういうことを知らなかったら,もしかしたら単にいじめられているように見えたかもしれない。
学術的に「いじめられる」ということは,むしろ望ましいことだと言える。
なんの批判的なコメントもつかないということは,もはや興味をもたれていないということなのであろう。