松宮慎治の憂鬱

'04京都橘高校卒→'08大阪教育大学卒、私立大学に職員として奉職→'17広島大学大学院教育学研究科博士課程前期高等教育開発専攻修了,そのまま後期課程在学中。とあるきっかけ(http://shinnji28.hatenablog.com/entry/2015/01/10/050000)があって、実名でブログを始めることにしました。特に憂鬱なことはないのですが、大学職員仲間がタイトルを考えてくれたので、そのまま使います。

勉強をすることは本当にいいことなのか?知らない方が幸せということもある

一年以上前から考え続けていることだが、勉強をするということは本当にいいことなのだろうか?
自分の幸せというものを考えたときに、「知らない方がいい」ということもあるのではないだろうか?

たとえばこういうことだ。
私の地元である京都府八幡市は、必ずしも所得の高い地域ではない。
大学に行く人もかなり限られる。
進学率が50%前後の時代にあって、1クラス40人いたとしたら、大学に行くのはおそらく5人未満ではないか。
少なくとも、自分の出身中学の世代ではそうである。
八幡市は別に田舎ではない。通おうと思えば通える大学はいくらでもある。それでこの数字である。
ではなぜ私は大学に行ったのか?
それは、端的に言って親が公務員で金銭的事情が許し、親自身が大卒であり、本をたくさん読む場を与えられた結果、「勉強する」「大学に行く」ということがいわば当たり前に考えられる(勉強それ自体がイヤであったとしても)文化的•制度的環境を与えられていたからにすぎない。
勉強しさえすれば、本を読みさえすれば、絶対に私よりも勉強ができた人はたくさんいた。
彼らも与えられた環境さえあれば、いくらでも伸びることができただろう。
ただ、文化的•制度的環境は与えられるものであって、自ら獲得するものではない。
ましてや、中学生にとってそれらを自ら獲得することのハードルはとてつもない。
この結果、大学に行った人と行かなかった人に差が生まれた。
いや、本当は差はその手前、高校進学の時点で生まれていた。
数年前、地元の公立校に進学した友人から、「お前が私立に行って、別の世界に行ってしまったように感じた」と言われたことを強く記憶している。
ある意味ではそれは正しい。
自分は、クラスメイトのうち何人が大学に行ったのか、すら正確に把握できていない。40人中5人未満といったが、もしかしたら1人くらいかもしれない。ある意味では、高校進学ではっきりと道は分かたれてしまった。
彼らの多くは八幡で生まれ育ち、八幡で結婚し、家を建て、子どもを育て、おそらくは八幡で生涯を終える。
近年はやった「マイルドヤンキー」「ジモト」といったキーワードがあるが、あれが近い。
一方の自分はといえば、仕事や私生活で神戸や東京や広島をフラフラしている。
結婚もしていないし、根無し草のような生活である。
ついている仕事も全然違っているし、生活の範囲や質(水準が高いとか低いとかいう意味ではない)も違っている。
ポジティブに考えればおそらく、選択肢は自分の方が多いと言える。
それはまさしく、勉強する環境を初めから与えられていたことに起因する。

しかしながら、勉強をした結果、選択肢が増えることによって、逆に縛られるということもある。
勉強をした、選択肢が増えた、そうすると、それなりのものを社会に還元する義務を背負う。
というか、そうしたポジションに自動的に移動させられる。
そして、自分自身そうしたポジションがふさわしいと、どこかで思い込んでしまう。
本当は、今すぐ仕事を辞めて、八幡に帰って、そこでできる仕事につくこともできる。
世の中に還元する価値など考えずに、行動範囲を狭めて、目の前の1つひとつの出来事を大切にすることもできる。
お金をたくさん稼がなくても、もっと気ままに暮らすことができる。
時々思うのだ。
あの頃、全然勉強せずに過ごしていたらどうなっていたかと。
もしかしたら、既に結婚して子どもがおり、でも本はあまり読まなくて、毎週末はクルマでくずはモール枚方ラウンドワンに行くような生活をしていたかもしれない。
選択肢が増えるということは、必ずしも幸せなことではない。
学ぶということは、知らない何かを知るということであり、視野が広がるということであるが、知った結果の幸せは保証されない。
そのことは誰も教えてくれない。
知らない方がよかったことをたくさん知ってしまうという学びの負の側面も、やはりあると思う。
でもそのことは誰も教えてくれなかった。
大人は「勉強しなさい」と言うときに、それが余分な贅肉になることもあるということを、無自覚に隠しているのかもしれない。

今また似たような状況にいる。なぜ自分は誰に求められているわけでもないのに大学院に通っているのか?
お世話になっている他大学の先生に「修了したらどうするんだ」と問われて、「何も考えていないし、そのように問われること自体がイヤだ」と答えたら、「お前がそうでも、マスター修了したら周りから問われるようになる。だから考えておけ」と言われたことがある。
正直言って、できればこの後どうするのか、ということは問われたくないし、自分でも問うていない。
本当は、ジモトでマイルドヤンキーとして暮らす方が自分には合っていたのではないか?
そんなにも身の丈に合わないほど視野を広げて、さらにこれ以上どうするつもりなのか。
その広げた幅を抱え切れるほどの力はあるのか。
いま自分に問うていることがあるとしたら、そのような後悔めいた疑問である。