松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

やる人と責任とる人が違うのは当たり前

仕事は組織的に行っているので、やる人と、やった結果の責任をとる人は、通常違っている。
しかしながら、たまにこの点を誤解している人がいるような気がする。
自分以外の誰かに対して何かをお願いしたときに言われることがある。
いわく、「責任がとれない」などと。
すなわち、行為と責任がセットだと、なぜか思い込んでいるのである。

自分は単なる行為をお願いしているのであって、行為の結果責任まで引き受けてもらうつもりはない。
行為の結果責任を引き受けるのは指示を出した自分である。でも、行為だけをやってくださいと言っているのである。
このような誤解は、官僚的な文化が強すぎる場合に起こるような気がする。
つまり、「報告しましたよ、という形をとりました」とか、何度も上司に確認をとるような文化であると、たぶん生まれやすい雰囲気だと思われる。
形式的な手順を抑えることによって、何か問題が起こったときの責任を回避しようとしているわけだが、この発想そのものが、行為と結果責任を一体としてとらえていることを示している。
やった結果起こった問題の責任は、あなたにはない。
それが職務上の行為であり、組織の中で行われる行為である以上、自動的にそうなるのである。
行為と結果責任が全くのイコールである、という状況が成り立つ人というのは、個人で働いているフリーランスの人だけではなかろうか?
ふつうの組織の権限体系では、行為と、その結果責任は別々に属していることが一般的である。
たとえば、私は学校法人に勤務しているので、私の職務上の行為の責任の全ては、たどっていけば最終的には理事長にある。
もちろん、違法行為をすればそれは自分の責任になるし、職務を離れた場合の行為も同様であるが、ここではあくまでも職務上の話に限定している。
上記の例も、当然職務上のことである。

責任感の強い人は、「自分のせいだ…」と思ってしまうかもしれないが、少なくとも指示を与えてきた人の権限が自分を上回るのであれば、結果はその人の責任になるのが当たり前である。
南場智子さんが言っていたことだが、「ヒトやモノではなく、コトに向かう」という姿勢が必要であろう。
ヒトに職務上の意識が向かっていると、自分や他人に降りかかる責任(そしてその反映としての罰)に目が行きがちになる。
しかし、責任などというものは、組織の権限体系の中で自動的に決まるものであるから、そんなことを気にしている暇があったらコトに向かった方がいい。
そして、そのように行為と結果責任を過剰に同一視し、官僚的な雰囲気だけを醸成するのは避けなければな、と思っている。
自らにいつも言い聞かせていることは、「組織の中でお前ができる失敗などたかが知れている」ということだ。
その上で、「責任はどうせ理事長がとるから」といった気楽な気分でチャレンジを重ねている。
私という小さな個人の失敗が、組織になんらかのダメージを与えうると考えるのは、完全に自意識過剰であり、自己の承認欲求の肥大化であり、むしろ傲慢であるとすら言えるのである。