松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

SMAPをサラリーマンにたとえることは妥当なのか?

標記のような言説をさまざまなところで拝見した。
著名な方でいえば、中央大学の竹内健先生や、池田信夫氏など。
組織を抜けられないSMAPもまた組織人であって、雇用が流動化しておらず、独立等が難しい日本の企業社会の縮図としてみる論調に見えた。
たしかに、大きなフレームワークとしては興味深い。
しかしながら、このようなたとえは妥当だろうか?
細かいことなのだが、まずSMAPが受け取っている報酬はサラリーマンとはケタ違いだろう。
その代わり、取っているリスクも非常に大きい。
これはいわば代償である。芸能界で売れるということは、その分だけリスクも増えるということである。
たとえば、彼らは実名を晒し、顔を晒し、その上で自分たちを売っている。
その帰結として、プライベートな時間などほとんど作れないだろう。
街へ出れば誰かわかってしまうのだから、これほどのリスクはない。
しかも、顔や名前というのは、一回出して売れてしまうと、「やっぱりやめました」ということができない。
「今日から顔と名前を出すのをやめます。だから忘れてください」ということができない。
時には昔のことを掘り起こされたり、身に覚えのない噂を立てられたり、誹謗中傷を受けたりするだろう。
もちろん、週刊誌へのリークは事務所がおさえてくれることも多いのかもしれないが。
このようなことは、ふつうのサラリーマンには発生しない。
ふつうのサラリーマンでない彼らは、仕事の中で自分の存在そのものを切り売りしていて、だから仕事と自分とを簡単に切り離して考えることが難しいに違いない。

そこで思うのは、論点はむしろ、サラリーマンよりはるかに大きなリスクをとっているにもかかわらず、なぜかサラリーマンのように組織に縛られてしまうことではないか?ということである。
とっているリスクが比較にならないほど大きいにもかかわらず、なぜかサラリーマン然と組織に縛られなければならない不条理がそこにはある。
普通の企業社会なら、SMAP並みに売れているスターであれば、所属する組織と対等に交渉できるようになるだろう。
「俺はこれだけの価値を生んでいるのだから、これくらいのリターンをくれ」と言ったり、「気に入らないなら独立したり、移籍したりするぞ」と言ったりすることができる。
ここで言いたいのは、わがままに要求を通せるようになるということではなくて、その組織にとって重要な人物であればあるほど、その人は組織に依存する必要がなくなり、双方はより対等の立場に近づくはずなのでは?ということである。

その意味で、SMAPが事務所の稼ぎ頭であったとして、事務所と対等に交渉できない状態からは、サラリーマン社会にはない、何らかの歪みを感じ取ることができてしまうのである。