松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

いわゆる「MOOCs」の衝撃は,大したこ​となかった(今のところは)―高等教育目標論特講(大学と社会の接続):藤村正司先生の課題から―

以下の文献を講読し、課題を作成しました。
◇講読文献
土屋 俊(2013)「6 デジタル・メディアによる大学の変容または死滅」広田照幸・吉田 文・小林傳司・上山隆大・濱中淳子編『グローバリゼーション,社会変動と大学』(岩波書店),pp.167-196.

◇課題
*内容にかかわるレジュメ作成

◇内容
 本稿は,米国の高等教育業界に端を発した「大規模オープン・オンライン・コース」(MOOC;Massive Open Online CourseまたはMassively Open Online Course)の席巻を概観した上で,大学の近未来に起きうる変化を予測的に論じたものである。本稿において,MOOCはタイトルである「デジタル・メディア」のいわば象徴として捉えられており,その特性がこれまでの大学のありようを根本的に変えうるものである,という論及がなされている。具体的な内容は,以下のとおりである。
 まず第1節では,MOOCの代表格としてCourseraとUdasity,およびedXを取り上げている。いずれも「2011年から12年にかけて急速に展開」(p.168)されたものである。CourseraとUdasityは,スタンフォード大学のコンピュータ・サイエンスや人工知能などの教員が講義を無料公開し,それがシリコン・バレーのベンチャーファンド資金提供を受けて事業化されたものであると説明されている。edXは,MITとハーバード大学の提携によって,MITが既に展開していた授業の無料公開を事業化したものと説明されている。その上で,授業のオンラインにおける無料提供の仕組みが,必ずしも本質的に新しくないにも関わらず,なぜ話題性を帯びえたのか,という疑問を投げかける。
 第2節では,前節で設けた問いに対して,その背景を描くことが試みられている。ここでは,端的にいえば, 2020年までに米国を第1級の高等教育国にしようというオバマ大統領の就任時の目標設定がある一方で,高額な学費が求められることの限界があったということが指摘される。すなわち,質の高い講義が無料で提供されるということからは,米国の高等教育が抱えていた限界を根本的に見直す可能性を示唆されるのであり,その「費用の増大と現行大学教育の非効率性という問題」(p.176)の解決策としての側面から,大きな話題性を帯びえたのではないか,と言うのである。
 第3節では,「無料」であるMOOCの実質的なコストについて言及されている。「無料」というのは「利用者が支払わないという意味での無料」(p.177)なのであるから,実現には当然コストがかかっていることが確認される。特に初期段階においては,大学の持ち出しによって実現が叶っていることから,MOOCにおける「無料」が,継続的に可能であるかどうか,そのモデルの確立については改めて疑義を呈している。
 第4節では,前節で指摘された無料サービスの持続可能性について論じている。具体的には,①販売者の出資による商業スポンサー方式,②開発者のソフトウェアの改良に関与する「バザール」モデル,③生まれた学術知を有償で提供するオープン・アクセス・ジャーナルモデルの3つを検討している。しかしながら,本節では,いずれがMOOCにとって適切かを結論づけることは避けられている。
 第5節では,MOOCの登場によって,これまでの大学の仕組みが死滅するのではないか,という問題提起がなされている。ここでは,これまでの大学を下支えしてきた枠組みとして,学生消費者主義と工場モデルを挙げ,これらを「20世紀的」(p.186)と断じている。いずれも,大卒の資格を得るということや,物理的に特定の場所に通うということを前提としているので,MOOCによって十分に破壊されうるというのである。
 第6節では,「成績評価のための試験の実施、学生コミュニティの形成」(p.189)といった,これまでの大学がもっていた独自の価値についても,部分的に実現可能となることが示唆されている。これらはオンラインでは実現しにくいと思われてきたわけであるが,少なくとも一部の機能は代替されており,この状況が加速すれば,「学生が集うキャンパスをもつ大学の存在」(p.191)や,「教室の主人であった、講義をする大学教師」(p.192)の存在は否定されうると述べている。
 第7節では,MOOCは大学の死滅のみならず,研究,すなわち知的生産や,学術的価値の生産についても大きく変容させうることが主張される。これまでの研究者の活動は,自らの研究を対外的に広めるというところに基軸があるのであるから,仮にMOOCをプラットフォームとして既存の活動を行うことができれば,もはや研究の側面からも大学の存在意義は危ういと述べている。

◇内容から考えること
 私がMOOCsの存在を初めて知ったのは,思い返すと週刊東洋経済オンラインによる以下の記事であったと思われる。
山田 順(2013)「MOOC革命で日本の大学は半数が消滅する!―高等教育のオンライン化がもたらす「衝撃の未来」(上)」(http://toyokeizai.net/articles/-/15581 ,2016年1月8日アクセス)
 この記事を初めて読んだときは,たしかにこれまでの大学モデルというのは,急速に終わってしまうのではないか,というレベルの衝撃を受けた。たとえば,「質の高い講義が,ネット環境さえあれば,世界中のどこでも受講が可能」「単なる無料講義ではなく,優秀な成績を収めれば,奨学金を受けたり,それを機に進学の推薦を受けたり,企業から就職のオファーを受けたりすることが可能」「いずれは,無料講義で単位を積み重ねることによって,学位も取得可能」といった事実は,既存の大学モデルを完全に破壊すると考えたからである。また,これらの仕組みが実質的に機能し始めれば,生まれた場所によって有利・不利が決まってしまいかねない高等教育へのアクセスの問題を大部分解決することになり,社会的にも有用ではないかと感じられたからである。以上のことから,当初はMOOCsに大きな関心をもっていたし,動向についても注視してきた。
 しかしながら,以来2~3年,必ずしも想像したような大変革は起きなかった。少なくとも,日本国内では起きなかった。わが国でも,日本オープンオンライン教育推進協議会(JMOOC)が2013年12月に発足したため,発足当初に会員となったが,あまり進展が見られなかったので昨年の3月に退会した次第である。これは,わが国だけが立ち遅れている,ということなのであろうか。そうは考えにくい。必ずしも想像したような大変革が起きなかった点について,国内的には以下の事情によるところが大きいと考えている。
 第1に,従来の大学モデルは,なんといっても中世ヨーロッパ以来の長期的な積み重ねの結果であるから,2,3年程度で価値観の転換を起こすことは難しい。「大学に通って学位を取得する」という行為が,無料かつ物理的な通学を伴わなくともOK,という大変革を遂げるためには,「それでも大卒として十分みなせる」という社会的合意が必要である。MOOCsは,おそらくは未だ一部の教育関係者しか知られていない現象であって,社会的合意の形成のためには,より多くの人に有用性が知られる必要がある。そのためには,従来の大学モデルで学位を取得した人々がじょじょに減っていく,MOOCsによる学位取得が増加し,社会の中で活躍し,認められていく,といった時間の積み重ねが必要であろう。
 第2に,言語の問題である。1点目とも微妙に関係することであるが,MOOCsの席巻は英語に支えられている。つまり,英語圏や英語の使用を一般国民が難なくこなせる国であれば浸透は容易なのだが,そうでない国にとって英語で講義を受けるというハードルは高すぎる。このため,わが国でも前述のようなJMOOCが発足したわけであるが,JMOOCが提供するgacco(http://gacco.org/list.html)は,内容の学術的レベルが高く,一定のリテラシーが求められるため,平均的な国民が簡単に視聴できるものではない。また,その結果として提供講座が少なすぎるという問題も抱えている。
 以上のことから,私はMOOCsのわが国における浸透については,短期的には難しいと考えており,またJMOOCの果たす役割も限定的であろうと予測している。一方,JMOOCが提供するgaccoに類似するサービスとして,schoo(https://schoo.jp/guest) には期待を寄せている。schooは株式会社スクーが運営する民間のサービスであり,gaccoと比べてホームページやアプリのインターフェイスもよく,講座数も充実している。もちろん,学術的でない講座が多数であるが,MOOCsの敷衍には学びのハードルを下げる,というプロセスが不可欠であるから,gaccoよりも意義深いのではないか,と考えている。

グローバリゼーション、社会変動と大学 (シリーズ 大学 第1巻)

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