松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

大学職員が「来年はこうしよう」と言ったときに問題となる3つのこと

新年を迎えたところで、自戒を込めて記しておきたい。
「明日やろうは馬鹿野郎」という言葉があるが、これを大学職員として、

「来年やろう」は馬鹿野郎

とアップデートしておきたい。

仕事をやっていく中で、さまざまな改善点を思いつくことがある。
そうした時に、「来年やろう」と言ったり、思ったりしてしまうことはないだろうか。
自分もそういうときが頻繁にあるが、これは非常にまずい。
「来年やろう」と言ってしまったときの問題点は、以下の3つである。

①今改善できることが同時に先延ばしされる

「来年やろう」と言うのは構わない。
ところで、「来年やろう」と今判断したそれらの事柄たち、本当にその全てを来年に回す必要があるのだろうか?
実はその中に、今年、今すぐ改善できることが含まれてはいまいか。
本当は今すぐできる改善について、今すぐやるのが面倒だから、来年にならないとできない改善点に、こっそり混ぜてしまってはいまいか。
今改善できることをも、なんとなく同時に先延ばしされてしまうことも、やはり多いように思う。

②学生に「来年」はない

もしかしたら、今年は何らかの事情でできなくて、でも来年ならできる、ということがあるかもしれない。
だが、それは年単位で物事を考えられる立場にある者の発想である。
学生にとっての1年の価値と、我々にとっての1年の価値は、必ずしもイコールではない。
その意味で、お互いの1年というのは、一回性をもっているのだ。
この1年は、もう二度とこない1年なのであり、この1回しかないのである。
この1回しかないある事業、イベント、ガイダンス、なんでもいい。
それに対する改善を来年に回すということは、今目の前で対象となっている学生は無視する、ということなのである。

③それらが実際に来年実現されることはない

最大の問題がこれである。
「来年やろう」といったときに、来年というのはすごく先の話だ。
「来年やろう」と言ってしまう人は、未来の自分を信頼しすぎている。
今「来年やろう」と思っていたとしても、来年も同じように思うかどうかはわからない。
というか、おそらく来年になったらまた新しい課題が目の前にあって、今目の前にある課題など忘れてしまっているだろう。
だから、今思いついた改善点というのは、ギリギリのところまで、「今」処理すべきである。



以上、大学職員が「来年やろう」と言ったときに問題となる3つのことを述べてきた。
述べてきたことにはあくまでも自戒を込めていて、私とて例外でない。
なぜこのような問題が生じてしまうのか?
それは、大学という場が1ヶ月や3ヶ月、半年ではなく、1年という期間で動くことが多い組織だからである。
それ自体、ダメなことではない。
しかしながら、そうした特徴に甘えて「来年やろう」の発想が板についてしまうと、上記3つの問題点を見過ごし続けることになってしまうかもしれない。