プレイヤーとオーディエンスの違いについて,ときどき考えている。
何かをしたいと思ったとする。
オーディエンスは,「何かをするには,まだこれが足りない」と言う。
あるいは,人のやったことに対して「もっとこうすべきである」と言う。
「上司がダメだ,わかってない」と言う。
「自分ならこうするのに」と言う。
オーディエンスは,いつまでも「準備」をしている。
「もっとこうすべきだ」と言いながら,何もしない。
「こういうことを今構想している」と言いながら,何もしない。
いつも,準備や構想に留まっている。
アイディアを語ることに価値があると思っている。
一方,プレイヤーは,着想を得るか得ないかのうちに,既に行動している。
行動してから,必要な準備を始める。
価値あるアイディアは,行動の中から生まれることを知っている。
オーディエンスは,打席に入る前の素振りをずっとしているようなものだ。
出かける前に,靴紐をずっと結んでいるようなものだ。
プレイヤーは,たとえ裸足であっても,とりあえず出かける。
出かけてから,自分にあった靴を購入する。
準備と行動の順番が逆なのだ。
行動は,泥臭いし,苦しい。
時には失敗することもある。
というか,「ほとんどが失敗」に終わるケースすらある。
失敗しても,失敗しても,とにかく行動する。
プレイヤーには,何か解決したい課題があるからである。
何かをよくしたいという情熱があるからである。
だからこそ,一筋縄ではいかない泥臭さを引き受けながら,それでも失敗に向かうのである。
プレイヤーは「行動の人」で,オーディエンスは「準備の人」なのだ。
そして,後者における準備というのは,本質的に行動のための準備ではない。
オーディエンスとして傍観するときの,単なる擬態に過ぎない。
行動するフリをするくらいなら,「お前はやる人,俺は見る人,だから何もしないよ」と公言してしまった方が,いっそ潔いと言われても仕方ないだろう。
自分は,できるだけプレイヤーでいたい。
プレイヤーとなるのか,オーディエンスとなるのかは,個人の選択の自由だと思う。
ただ,自分の価値観のなかでは,プレイヤーに比べて,オーディエンスはダサい。イケてない。
でも,プレイヤーか,オーディエンスか,というのは,一方では自分だけでは決められない。
世の中の評価で決まってくることもある。
だから,「プレイヤーでいたい」と思っていても,知らず知らずのうちにオーディエンスになってしまっているかもしれない。
もしも自分が,意識するにせよ,しないにせよ,オーディエンスになってしまっていたら。
そのときは,せめてプレイヤーの邪魔だけはしないオーディエンスでいたい。
プレイヤーというのは,いつも成功するわけではない。必ず失敗する。
その失敗を笑ったり,嘲ったり,彼らの足を引っ張ったりするのではなく,応援できるオーディエンスでありたいと思うのである。