松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

プレイヤーとオーディエンスの違い

プレイヤーとオーディエンスの違いについて,ときどき考えている。

何かをしたいと思ったとする。
オーディエンスは,「何かをするには,まだこれが足りない」と言う。
あるいは,人のやったことに対して「もっとこうすべきである」と言う。
「上司がダメだ,わかってない」と言う。
「自分ならこうするのに」と言う。

オーディエンスは,いつまでも「準備」をしている。
「もっとこうすべきだ」と言いながら,何もしない。
「こういうことを今構想している」と言いながら,何もしない。
いつも,準備や構想に留まっている。
アイディアを語ることに価値があると思っている。

一方,プレイヤーは,着想を得るか得ないかのうちに,既に行動している。
行動してから,必要な準備を始める。
価値あるアイディアは,行動の中から生まれることを知っている。

オーディエンスは,打席に入る前の素振りをずっとしているようなものだ。
出かける前に,靴紐をずっと結んでいるようなものだ。
プレイヤーは,たとえ裸足であっても,とりあえず出かける。
出かけてから,自分にあった靴を購入する。
準備と行動の順番が逆なのだ。

行動は,泥臭いし,苦しい。
時には失敗することもある。
というか,「ほとんどが失敗」に終わるケースすらある。
失敗しても,失敗しても,とにかく行動する。
プレイヤーには,何か解決したい課題があるからである。
何かをよくしたいという情熱があるからである。
だからこそ,一筋縄ではいかない泥臭さを引き受けながら,それでも失敗に向かうのである。

プレイヤーは「行動の人」で,オーディエンスは「準備の人」なのだ。
そして,後者における準備というのは,本質的に行動のための準備ではない。
オーディエンスとして傍観するときの,単なる擬態に過ぎない。
行動するフリをするくらいなら,「お前はやる人,俺は見る人,だから何もしないよ」と公言してしまった方が,いっそ潔いと言われても仕方ないだろう。

自分は,できるだけプレイヤーでいたい。
プレイヤーとなるのか,オーディエンスとなるのかは,個人の選択の自由だと思う。
ただ,自分の価値観のなかでは,プレイヤーに比べて,オーディエンスはダサい。イケてない。
でも,プレイヤーか,オーディエンスか,というのは,一方では自分だけでは決められない。
世の中の評価で決まってくることもある。
だから,「プレイヤーでいたい」と思っていても,知らず知らずのうちにオーディエンスになってしまっているかもしれない。

もしも自分が,意識するにせよ,しないにせよ,オーディエンスになってしまっていたら。
そのときは,せめてプレイヤーの邪魔だけはしないオーディエンスでいたい。
プレイヤーというのは,いつも成功するわけではない。必ず失敗する。
その失敗を笑ったり,嘲ったり,彼らの足を引っ張ったりするのではなく,応援できるオーディエンスでありたいと思うのである。