松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

「一般教育」はどこへ行ったのか?―「教養教育」との関係から見る理論的混乱――大学教育論特講(内容と方法):佐藤万知先生の課題から―

◇購読文献

 今回は以下の文献を購読し,「一般教育」「教養教育」の用語の理論的混乱を概観した。
・絹川正吉(2015)「Ⅰ.「教養教育」を問う」『大学の死、そして復活』(東信堂),pp.4-86.

「大学の死」、そして復活

「大学の死」、そして復活

◇「一般教育」はどこから来たのか?

 筆者によれば,そもそも「一般教育」は,「アメリカの大学におけるGeneral Educationに対応するもの」と言われてきた(p.28)という。新制大学発足時,わが国がGeneral Educationを日本に導入するためにしばしば参照していたのが,『ハーバード大学報告書(1945年)』(通称:『レッドブック』)であった(p.28)。しかしながら,筆者は日本の「一般教育」とアメリカの「General Education」には質的な差異があることを指摘する。具体的には,アメリカの「General Education」は「民主主義という思想性」をもっており(p.23),「民主的社会を維持発展させるための個人の充実を目的」とした「民主主義の教育」が本義であった(p.31)。他方で,「日本の「一般教育」は『ハーバード大学報告書』が提案するところの「人文、社会、自然の各領域から均等履修」することのみに執着」(p.28)してしまったのである。

◇「一般教育」はいつ,なぜ「教養教育」になったのか?

 必ずしも十分に本義を踏まえられないまま輸入された「一般教育」は,いつ,なぜ「教養教育」と名前を変えたのか。筆者によれば,「1991年のいわゆる大綱化答申により、「一般教育」は法令用語ではなくなり、改めて、「一般教育」に代えて「教養教育」が問われるように」なった(p.29)ことがひとつの契機とされる。ただし,「教養教育」の内容は定かではない。たとえば,キャリア教育や初年次のような専門外教育が含まれる場合もあれば,専門教育も射程とする専門基礎教育が含まれる場合もある。このため,「教養教育」を単純に「一般教育」に代わるものとして捉えるわけにはいかない(p.6)。加えて,用語としての「教養」には,朱子学に顕著な「学問が人格を形成するという思想」(p.12)が含まれており,人格を「教育」することができるのかという問題が存在する。いわばこの両者を接続する触媒として登場したのが「一般教養」という用語である。

◇コンセプトとしての「一般教育」の復活

 この論稿における筆者の主張は,端的に言えば「一般教育」の「復活」であると言えよう(「一般教育は死語であるかのように受け止められていますが、今こそ一般教育を復活するべきである,p.32)。「「教養教育」という表現は混乱の元」(p.32)である,というような用語の問題も当然ある。しかしながら,筆者が問題にしているのは,用語そのものではなく,用語を成立させている背景であると思われる。論稿において「カリキュラム用語としての「一般教育」ではなくて、コンセプトとして「一般教育」ということを改めて問題にしたい」(p.63)と述べていることがわかりやすい。すなわち,輸入元であったアメリカのGeneral Educationの本義を改めて確認することが肝要である,ということではなかろうか。大学教育学会の英語名称が変更される際,この点がいかにしてクリアされたのか,佐藤先生のお話を伺いたい。