標記の本を読了した。
国家の財政がひっ迫する中,一体だれが高等教育の費用を負担するのかという論点について,さまざまな視角から議論がなされている。
最も刺激的だったのは,矢野先生の論稿(『第6章 費用負担のミステリー―不可解ないくつかの事柄』)である。
ご存じのように,わが国の高等教育への公財政支出のうち,もっともおおきな割合を占めるのは国立大学への運営費交付金である。
しかしながら,「学生」という視点で見たときには,そのほとんどが私立大学に所属していているのはご承知のとおりである。
この状態について,矢野先生は次のように喝破されている(p.182,赤字は引用者)。
若干の私学助成金があるとはいえ、私立大学の経営は学生本人(家計)の負担で成り立っている。そしてもし、受益が本人だけに帰属するなら、私立大学は「利己」関係の教育だといえる。しかしながら、高い財政的収益率から分かるように、所得の再分配効果によって、私大卒業生は、見知らぬ他人のためにより多くの税金を納めている。「シェア」関係ではなく、「奉仕」関係にずれている。経済的便益だけからみた「シェア」関係は、社会的=私的=財政的の三つが均衡する場合である。いささか品に欠ける露骨ないい方をすれば、私立大学の成長によって得をしたのは政府であり、損をしている、あるいは奉仕している、もしくは搾取されているのは私立である。このように不可解な状態が、長く続き、放置されてきたのが、日本の大学である。ミステリーというタイトルをつけたくなる由縁である。
一部だけを抽出して何かを論じるのは適切ではないかもしれないが,この前段階として,矢野先生は国立大学と私立大学の私的収益率を比較されている。
私的収益率というのは,「家計の費用負担額と税引き後の生涯便益の関係」であり,要するに投資に対してどれだけの回収が見込めるのかを推計する指標である。
この私的収益率は,矢野先生によれば国立大学で7.4%,私立大学で6.4%であるという(p.180)。
要するに高等教育を投資としてみたときに,国立大学に行けば投資額に対して7.4%,私立大学で6.4%が収益として回収できるのである。
高等教育が銀行預金などに比べて非常に効率がよいことも示唆されるデータであるが,ここで重要なのは国立大学と私立大学の私的収益率が大差ないということである。
その一方で投入されている公財政支出は圧倒的に国立大学の方が多いのであるから,負担する主体が本人(家計)であることも勘案すると,前述の「奉仕」する私立大学(とそこに所属する学生)像が浮き彫りになるのである。
かつて私立高校に通っていたときには,毎回回ってくる私立学校への助成の増額要求にかかわる署名運動について,こんなものがなぜ必要なのか,と思っていた。
払える人が払えるから来ているのであって,それに対して補助をもっとくれと要求する意味がわからなかった。
しかしながら,このように費用や便益というものをマクロな視点でみたときには,単純にお金を払う→利益を受ける,という関係では物事が語れないことが理解できる。
ほかにも小林雅之先生の「無理する家計」によって高等教育機会の所得階層差が支えられていて,今後それが継続的に維持される保障はないことを述べた論稿(『第4章 大学の教育費負担』)などをはじめ,大変勉強になった。
大学のコストが誰にどう支えられているのかを改めて概観することは,自身の生活の元手が何によって支えられているのか,そのメカニズムを捕捉することでもある。
そういった感覚を持ちながら働きたいものであると感じた。
大学とコスト――誰がどう支えるのか (シリーズ 大学 第3巻)
- 作者: 阪本崇,丸山文裕,水田健輔,小林雅之,上山隆大,矢野眞和,広田照幸,吉田文,小林傳司,濱中淳子,白川優治
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2013/05/15
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