松宮慎治の憂鬱

'04京都橘高校卒→'08大阪教育大学卒、私立大学に職員として奉職→'17広島大学大学院教育学研究科博士課程前期高等教育開発専攻修了,そのまま後期課程在学中。とあるきっかけ(http://shinnji28.hatenablog.com/entry/2015/01/10/050000)があって、実名でブログを始めることにしました。特に憂鬱なことはないのですが、大学職員仲間がタイトルを考えてくれたので、そのまま使います。

教養教育の目的,カリキュラム,実施体制―大学教育論特講(内容と方法):佐藤万知先生の課題から―

◇購読文献

 今回の購読文献は以下の4点である。

①杉谷 祐美子(2011)「第1部 一般教育から教養教育へ 解説 混迷する教養教育と高校教育との接続関係」杉谷祐美子編『リーディングス日本の高等教育2 大学の学び―教育内容と方法』(玉川大学出版部),pp.12-19.
②寺﨑昌男(2011)「第1部 一般教育から教養教育へ 1 戦後大学と教養教育の模索」杉谷祐美子編『リーディングス日本の高等教育2 大学の学び―教育内容と方法』(玉川大学出版部),pp.21-33.
③関 正夫(2011)「第1部 一般教育から教養教育へ 2 学士課程教育改革の事例―学生の自己実現・一般教育を重視する視点から」杉谷祐美子編『リーディングス日本の高等教育2 大学の学び―教育内容と方法』(玉川大学出版部),pp.35-41.
④吉田 文(2011)「第1部 一般教育から教養教育へ 2 教養教育と一般教育の矛盾と乖離―大綱化以降の学士課程カリキュラムの改革」杉谷祐美子編『リーディングス日本の高等教育2 大学の学び―教育内容と方法』(玉川大学出版部),pp.42-52.

 以上を拝読した上で,自らの所属する大学の教養教育がどのような目的とカリキュラムを持ち,実施体制で臨んでいるのかを調べ,上記論文によって述べられている論点で説明がつく課題があるのかを簡単に考察した。

◇論点

 購読文献から示される論点は次の4点であると考えられる。
 第1に,教養教育と専門教育の統合の問題である。これは,寺﨑(2012:32)も指摘するように育てたい「人間像の問題」も含む,いわば理念的テーマであると言える。第2に,実施する組織体制の問題である。設置基準の大綱化によって教養部が解体されたことは全ての文献を通じて何度も出てくる事項であるが,このことによって主体が曖昧になった事実が,今になって新たな問題を提起している。第3に,高大接続の問題である。杉谷(2012:15)が指摘するように,歴史的には「高校教育の繰り返し」である課題が存在していたが,学生の学力変容によってむしろ「高校教育との乖離」が焦点化し,初年次教育やリメディアル教育とのかかわりが問われるようになってきている。第4に,個別具体的なカリキュラムの問題である。大学の自由裁量が増大したことによって,たとえば教養教育のスリム化されたケースでは語学や情報教育のようなスキル修得科目に重点が置かれる等,多様性が拡大している(吉田,2012:44)。

神戸学院大学の共通教育の紹介

 勤務先である神戸学院大学では教養教育のことを「共通教育」と形容しており,目的とカリキュラム,実施体制は次のとおりである。内容については,『共通教育はやわかり2015』(神戸学院大学共通教育センター作成)から抜粋し,再編集した。

●目的

 大目標として,建学の精神である「真理愛好、個性尊重」を実現することが掲げられている。この大目標を実現するための小目標として,基本的には学生個々が抱く希望や願望の多様性を尊重することを前提としながら,たとえば以下のような項目が掲げられている。
 ・学部教育への意義ある橋渡し(学部教育へのスムーズな移行と展開)の役割を担う
 ・楽しく面白いことばかりではない,中学や高校の既習科目とは根本的に違う,新しい世界を見せる
 ・急激に変化する世界を広く大きな立場から読み取る力を身につける
 ・新しい基礎知識を積み上げて,着実にワンランク上の自分を築く
 ・ワンランク上を目指すための,土台作り
 ・外国語や情報処理の検定試験に合格する

●カリキュラム

 カリキュラムは,リテラシー科目群とリベラルアーツ科目群に大別される。前者は「外国語分野」「情報分野」「基礎思考分野」「社会人入門分野」の4分野に,後者は「人文科学分野」「社会科学分野」「健康科学分野」「地域学分野」の4分野に,それぞれさらにわかれている。
 履修条件は学部によって多様である。神戸学院大学は9つの学部を擁しているが,学部のみならず学科や専攻によって条件が異なる。卒業所要単位に着目したとき,総合リハビリテーション学部,栄養学部,薬学部といった理系かつ職業に直結した資格取得では少なく,そうでない人文社会科学系の学部では比較的多い,という傾向が見てとれる。

●実施体制

 実施体制は,全学教育推進機構の下に位置付けられた「共通教育センター」が担う。実際の運営については,学部でいう教授会にあたる共通教育センター委員会や,学部選出委員との共同運営方式による共通教育等運営委員会において議論される。なお,神戸学院大学の共通教育は長らく共通教育機構という理念形の組織で運営されてきたが,2007年頃から見直しの機運が高まり,2014年には「共通教育センター」所属の専任教員を採用するに至った。

◇論点で説明がつく課題があるのか

神戸学院大学の事例においても,提示した4つの論点は全て包含されている。
第1に,教養教育と専門教育の統合については,参考資料においてさまざまな表現で言及されている。具体的には次のようである。(下線は引用者)


・…大学の見学精神の実現が、学部教育のみならず共通教育を通して個人のうちにおいてもまた実現されることを願いながら、体系的なプログラムを組み、その実践のためにすべての分野に優秀な教員が配置されています。
・…共通教育において用意されているそれぞれのメニューは、独自の目標と価値を持ちつつ、学部教育への意義ある橋渡しの役割をも担っています。
・…学部教育へのスムーズな移行と展開が行われるよう関連づけと工夫がなされているのです。
・…共通教育のプログラムを必要に応じてしっかりと身につけることが、いわゆる学部教育でのさらなる伸びを促すことになります。
学部教育の段階にいたって、人格形成や学力がなかなか思い通りの結果と結びつかないケースをよく耳にしますが、それはひとつには、基礎教育における地道な訓練を怠ることに起因すると従来から考えられています。

 こういった記述から,神戸学院大学では教養教育と専門教育の関係について,教養教育を専門教育の基礎として捕捉していることが理解できる。この要因として一つには,配当年次の都合上,新入生の学びの端緒が多くの場合共通教育であることが挙げられよう。また,こうした考え方から発展して,教養教育での学びを蔑ろにしたまま専門教育へ移行することなどできないという理念も同時に表出している。しかしながら,学部によって卒業所要単位に差がある以上,この理念を全学部に一律に適用することは難しい。
 第2に,実施する組織体制については,かつての教養部の解体からの揺り戻しともいえる現象が起きていると言える。特にセンター設置およびセンター所属の専任教員の配置の観点から見ればそうである。ただし,運営の方式に着目すれば,教養部時代とはその実相が微妙に異なって見える。具体的には,「リベラルアーツ科目は原則として各学部の専任教員が分担して受け持つ」「共通教育センターと各学部の選出委員が分担して分野の主任を担い,各分野のカリキュラムをコーディネートする」といったように,学部の教員と連携した合議形式によって運営がなされている。この意味で,運営に参画する教員という視点から見れば,教養教育と専門教育の分断は起きにくくなっていると思われる。
 第3に,高大接続については「高校とは違う」という前提をむしろ学生に積極的に提示している。具体的には,前述の参考資料に次のような文言が存在する。(下線は引用者)


・大学で学ぶことがらは、中学や高校で学んだ既習科目の内容とは根本的に違います。そのことが少しでもわかってくると、学ぶ楽しさは倍加するでしょう。
・…本当に新しい世界は、ただ面白いこととか楽しいことばかりといった世界とは違います。辛い苦い味わいもまた、新しい世界に含まれることを知らなければなりません。世界にはジレンマもあれば、トリレンマもあります。
・これに耐えることが、いま神戸学院大学生に求められているわけです。手抜きメニューではなく、前向きに、意欲を持って学んでください。そうすれば、かなりの成果を保証することが可能です。

 以上の箇所から,学生の側に一定の努力を要求し,その覚悟を持たせることによって,高校教育との接続を図ろうとしていることが示唆される。こういった理念は広義の初年次教育と表現できるかもしれないが,リメディアル教育とは明確に異なる。
 第4に,カリキュラムの問題については,以上のような共通指標としての理念がありつつも,学部によって条件が異なるという状態は,たしかに何らかのコンフリクトをもたらしていると思われる。同時に,神戸学院大学の共通教育のカリキュラムは,教養教育がスリム化されたケースでは語学や情報教育のようなスキル修得科目に重点が置かれるという吉田(2012:44)の主張をサポートしていることが理解できる。
 神戸学院大学のような総合大学では,学部の独自性・多様性の担保がまず先にあって,おのおのの学部が教養教育の履修条件を設定することになる。このため,教養教育のメニューには必然的に,選択肢の多さ,幅の広さが要求されることとなるのである。