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松宮慎治の憂鬱

'04京都橘高校卒→'08大阪教育大学卒、私立大学に職員として奉職→'17広島大学大学院教育学研究科博士課程前期高等教育開発専攻修了,そのまま後期課程在学中。とあるきっかけ(http://shinnji28.hatenablog.com/entry/2015/01/10/050000)があって、実名でブログを始めることにしました。特に憂鬱なことはないのですが、大学職員仲間がタイトルを考えてくれたので、そのまま使います。

「学生の学力が低下している」と一方的に断じることは「我々の時代は最高」ということとほぼ同義―高等教育目標論特講(大学と社会の接続):藤村正司先生の課題から―

前期と違って、課題をレビューっぽくまとめることに挑戦してみました。
その方が、このブログに転載したときに読みやすいと思いまして。
それに、書いてあることを羅列するより、そっちの方が難しいですからね。
課題となったこの本は、以前に読んだことがあるのですが、改めて勉強になりました。
受講生や先生と議論するのが楽しみです(今は、課題ができたところ)。
少なくとも学生関連の部門にいる方は必読の書ではないでしょうか。

◇講読文献
濱中義隆「2 多様化する学生と大学教育」広田照幸・吉田 文・小林傳司・上山隆大・濱中淳子編『大衆化する大学―学生の多様化をどうみるか」(岩波書店),pp.47-74.

大衆化する大学――学生の多様化をどうみるか (シリーズ 大学 第2巻)

大衆化する大学――学生の多様化をどうみるか (シリーズ 大学 第2巻)

◇課題
*内容にかかわるレジュメ作成

◇内容
 本論稿の要諦は、世論における学力低下論が、その「センセーショナルなとりあげられ方」によって重要な論点を見失っているのではないかという問題提起にある。大学生の学力低下は進学率上昇によって自動的にもたらされたと一般的に考えられているが、実際にはそうでない可能性の方が大きいこと、専門学校との比較分析から、むしろ問題は学力低下ではなく志向性の変化にあると思われることの2点を指摘することによって、一般的な大学生の学力低下論の背景で重要な課題が見逃されるかもしれないという警鐘を鳴らしている。詳細には次のとおりである。
 第1節では、一般的な大学生の学力低下論(「レジャーランド化」「全入時代」など)が「進学率上昇による平均的な学力水準の低下」と「学ぶ意欲・関心の低下」の2つから成立することを指摘する。この2つにデータに基づく反証を行うのが本論稿の主要な目的となる。第2節では、進学率の上昇と学力低下の関係について、SSM調査(「社会階層と社会移動に関する全国調査」,The national survey of Social Stratification and Social Mobility)のデータから「大学進学率の上昇により直ちに学生の学力水準の低下がもたらされているとは言えない」と結論づける。具体的には、学力水準を上位層、中位層、下位層と分類した場合に、大学進学率上昇によって全体の学力水準低下に直接的に貢献すると思われる下位層の進学率上昇が、中上位層に比べてはるかに低いことを指摘する。また、上位層の進学率はたしかに上昇しているが、全体の学力水準低下に大きく貢献することはないことや、銘柄大学への進学が容易になったわけでは決してない(学力のばらつきが大きくなっている可能性はあるが、マクロな視点からみれば例外事例とみなせる)ことも併せて述べられている。では中位層はどうか。本論稿では、中位層を分析する視点として(1)専門学校との競合(2)結果としての志向性の変容(学力低下ではなく)という2点を提示している。第3節では、厳しかった入学者選抜が弛緩した90年代以降、中層は大学へと押し寄せたという一般的な見方について、実際には専門学校と競合しているという重要な指摘を行っている。また、この背景として就職難からくる実学志向を挙げている。こういった状況分析から、実学志向(すぐ「役に立つ」こと)と自律性を重んじる従来の大学教育観はしばしば相容れないのであるから、もしも従来の大学教育観に依拠していれば、実学志向の学生の態度は「学ぶ意欲・関心の低下」と映ってしまうであり、焦点は学力低下ではなく志向性の変化にあるという学力低下論のメカニズムの一端を示した。
 第4節では、前節までを踏まえて議論がより専門学校との競合関係に深化していく。すなわち、18歳人口減少期にあっても入学者数を増加させた分野は、いずれも職業資格と直結した、専門学校との競争が想定される分野であるというのである。このため、大学は前節で指摘された学生の志向性の変化への対応を迫られたわけであるが、第5節では学部学科の再編やカリキュラムの多様化、個性化をその一例として挙げている。もっともそうした多様化は学生の志向性の変化への対応のみによってもたらされたわけではなく、(1)学際的学問領域の拡大(2)「専門的職業教育」の参入(3)学生募集といった外部要因の影響も大きいことが併せて説明されている。第6節と第7節では、著者自身の勤務校での経験から、大学教育の「芯」足りうるものは何か、ということについて一定の示唆を提供している。職業直結のカリキュラムを準備する学部学科は、それが職業準備教育であることを「芯」にし、特定の職業と結び付かない分野では、学生の問題関心そのものを「芯」とせざるをえない、というのがその結論である。

◇内容から考えること
 世論のみならず、大学関係者にとって学力低下論は所与のものとされていることが多い。自らが大学に通っていた経験から、自らの経験あるいは自らの時代と現在を照合し、「学生の学力が低下している」と断じることは「我々の時代は最高」ということとほぼ同義であり、ある種の快感を伴うことがその大きな要因の一つであると感じる。また、こうした学力低下論は初等中等の教育現場でも同様に疑義が呈されている。たとえば京都府教育委員会では、項目反応理論における等化という手法を用いて、学力テストの経年比較を行う実証研究が行われたこともある。当該調査は数学に限ったものではあったが、2003,2006,2009年度の「生徒の平均的な学力はほとんど変化していない」と結論づけられた。このように一般論はときに明確な根拠を持たず、イデオロギー的に世論を支配することがある。学力低下論のような大学生にかかわる論は、自身が関係者である限り安易にそれらに乗ずるのではなく、多様な視点から検討しなければならないと改めて考えた。
 本論稿では言及されえなかったこととして、「学力」そのものの変容が挙げられる。「キー・コンピテンシー」「PISA型学力」(OECD)や「新しい学力観」(文部科学省)のように、「学力」の捉え方そのものの変容が問われ始めて長い。時代の変化によって求められる力も変容するのがいわば当然であり、職務の範囲においても模索し続ける必要があろう。