松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

大学院進学による問題その(1)支配する批判的思考―あくまで個人の事例ですー

大学院に進学することによっておきる問題もやはりあります。
ただし、これはあくまで個人の事例であり、当然のことながら通っている大学院になんら落ち度はなく、全ては自分の問題です。それを最初に断っておきます。

ここ最近、誰かのお話を聞く、ノンアカデミックな機会というのが結構ありました。
しかし、その間、私の頭を巡っていたのは以下のような言葉です。

「なぜそう言えるの?」

「理論的根拠は?」

「ミスリードし過ぎでは?」

「ある一面のみを取り上げているのでは?」

「他の知見を流用しているだけでは?」

「この方なり理論(オリジナリティ)はどこに?」

すごくイヤなやつですよね。
仮にですが、仕事中にこういうことを言うとかなりイヤがられます。
そりゃそうですよね。特に「なぜ?」「どうして?」はかなりイヤがられます。
でも、こうやって常に疑いながら、批判を加えながら頭を動かすということが、「大学院で学ぶ」ということそのものなわけです。
大学院では無批判に物事を考えるというのは基本的に悪で、「本当にそうか?」「そのプロセスで実証できたと言えるか?」と常に批判的に問い、検証を行うことが求められます。
こういった批判的思考をそのまま仕事に持ち込んだら、やっぱり嫌がられると思います。
批判的思考がダメだというのではなくて。
人間が感情で動く生き物である以上、批判的に見られることを好む人は少ないです。
ここでの批判の対象は個人の人格ではなく、その方の理論や提案であるわけなのですが、議論は議論として峻別してくれる人ばかりでもありません。

ではこういった批判的思考は仕事に持ち込むべきではないのでしょうか?
私はそうは思いません。嫌がられること覚悟で、むしろどんどん持ち込むべきだと考えています。
ただし、その責任は自分でとる必要があるように思います。
すなわち、そのように批判的に物事を見る以上は、その批判的まなざしがブーメランのように自分に返ってくるという自覚が必要で、そのためには「結果で黙らせる」ということがやはり必須かなと考えます。
では、もしも結果が出なかったら?それはやはり、ただのイヤな人で、単なる評論家、ということで片付けられても仕方ありません。
批判的思考はもはやクセのようになってしまいます。
もちろんプライベートの場で批判的思考を持ち出すことはそうないですが、仕事のように「考える場」だと、どうしても出てきてしまいます。
ちょっと極論かもしれませんが、そうなって人からイヤがられるのが困る方は、大学院行かない方がいいかもしれません。