松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

学生時代の友人と会うことによってもたらされるリセット現象

お盆休みの間は、高校時代の友人に会っていました。
今年から大学院に通っていてめちゃくちゃ多忙になりつつあるわけですが、それでもこのような時間はなくさないように意識しています。
というのも、学生時代の友人と会う時間というのは、自分がリセットされる時間だからです。

突然ですが、私はコミュニケーションがあんまり昔から得意じゃないんですよ。
人と仲良くするのは苦手です。もっといえば嫌いです。
昔から本読んだり、一人でレゴで日本の名城作ったり、一人で大富豪するのが好きでした。
だから、友達ができた時代もあれば、できなかった時代もあります。
「クラス」というものが設定されていた時代は、いくら友達を作るのが苦手な自分でも、半年もすれば仲のいい友達ができていました。
たとえば中学生のときは、部活が全てでした。
私がやっていた剣道というスポーツは、個人競技のように思われますが、団体戦がその花形です。
そのときはクールぶって「別にそんなアツくならなくても」と思っていましたが、本当は勝ちたかったのだなと今では素直に思います。
高校生のときは、私立だったので中学生のときのような多様性は失われてしまいましたが、その分居心地もよくなり(なってしまい)ました。
今年度30なので、「そろそろ人生において、出会ってからの時間の方が長くなるな」という話をたまにします。

学生時代の友人と会話をしている中、いつも思うことがあります。
それは、働いている自分はずいぶん無理をしているかもしれないな、ということです。
多分なのですが、私は根本的にふつうに働くのは向いていないように思います。
人間には、言い訳とか、能力不足とかではなくて、どうしようもない向き・不向きというものがあるはずです。
しかしながら、自分はずいぶん不向きな「ふつうに働く」ということをしながら、その無理を無理によって超えてしまっているのではないだろうか、ということを、彼らとの会話から考えることが就職してから増えました。
「いつからこんなに器用に振る舞えるようになったのか」とか、「いつからこんなに結果にこだわりはじめたのか」とか、そういった雑念に近いものに過ぎないのですが、一言でまとめると、

「本来の自分は、こんなだったのだろうか?」

というイメージが反語で去来するわけです。まるで中二病みたいだと思われるかもしれませんが、このイメージは就職してから明確に持つようになったものです。

学生時代の友人と接すると、一瞬で学生時代のような感覚に戻り、自分がほとんど気を使っていないことに気づきます。
このとき、「本来の自分に戻っている」という感覚を得ることがあります。
これがリセットです。多分、これがないと仕事に戻っても、どこかで心身壊れてしまうかもしれないという直感があります。
したがって、どれほど忙しくなっても、学生時代の友人と会う時間は失わない(必ず他の予定よりも優先させる)ということを肝に銘じているわけです。
あまり思いいたったことがなかったのですが、改めて考えると、リセットというのは「re」「set」であり、再度出発するための所作なのだなと。
でも、本来なら、学生の時のような繊細で自然なイメージで働けるのが、多分一番いいと思います。
そういうことを考えたお盆でした。