松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

<自撮り>の社会学―急いで消費される今この瞬間

自撮りという言葉ができたのは、おそらく携帯電話で写真が撮影できるようになってからだと思います。
今はスマートフォンですが。
要は、手持ちのデバイスで手軽に撮影できると。それで自分を撮影するという行為が自撮りです。
自撮りは、私の世代にとってはたぶん恥ずかしいことの象徴でした。
大いにナルシスティックで、「何やっちゃってんの」と思ってしまう代物だったと感じます。
やったことある人も、中高生か、せいぜい大学生くらいまで、若気の至りの自分大好き感がドライブしてやってしまった、といういわゆる黒歴史の範疇ではないでしょうか。
すなわち、我々の世代にとって(世代というとよくないかもですね、少なくとも自分にとって)、写真というのは自分ひとりが写るものではなかった。人に撮影を頼むことで、他の誰かと一緒におさまるものだったのです。
「人に撮影を頼む」というところがポイントで、自分で撮影するということは、それは「自撮り」の延長なので、いかにもナルシスティックで、恥ずかしいことだという感覚がありました。

ところがどうでしょう。近年、以下のようなものを街中で頻繁に見かけます。

いわゆる「自撮り棒」ですね。おそらく、こうした商品が出る以前から、少しずつ手持ちのスマートフォンで自分ないし自分たちを撮影する、という風俗は当たり前になったのだしょう。
その延長戦上で、もっと撮影しやすくするために、こうした商品が登場したものと思われます。

良い悪いではなく、以前と一体何が変わってしまったのだろうか、と考えています。
思うに、以前との差異は、「今この瞬間」の消費の仕方にあるのではないでしょうか。
自分たちを撮る、その回数が増えるということは、要するに「今この瞬間」を映像としてキープする回数が増えた、ということでしょう。
それだけ、「今この瞬間」の消費のスピードが上がっているのではないでしょうか。
「今この瞬間」が次の瞬間にはもう「次の今この瞬間」になっているので、今の「今この瞬間」をそのつどキープしたい、残しておきたい。
しかし、残したものを再び見ることはほとんどない。なぜなら枚数が多すぎるから。これが消費でなくてなんでしょうか。
私にも身に覚えがありますが、多くの写真を撮影しても、再度見ることがあまりありません。数が多すぎて。
では、それらの写真たちは、いったい何のために撮影されたのでしょうか?再度見ることのない写真に価値はあるのでしょうか?
「今この瞬間」を撮影する、ただそれだけの目的で撮影された写真の意味づけは、どんな風にすればいいのでしょう。
「今この瞬間」の消費が目的になり、そのスピードが速まっている。
そんなことを感じました。