松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

業務を量的に捉えた時に没却される質的側面の問題は根深い

「業務量が多い」という表現が人口に膾炙するが、私はこの表現には根本的な誤りがあるように思う。
業務にはなんらかの目標がある。
このとき、その目標をいかに、どのレベルで達成しえたのか、という点が肝要となる。
すなわち、業務を捉えるときに大事なのは、量ではなく成果の質なのである。
質の問題を勝手に量の問題に転換してはならない。

業務を量的に捉えてしまった場合の問題はまだある。
「業務量が多い」と言ってしまう人は、永遠にそう言い続け、その過程でいずれなんらかの破綻を招く。
なぜなら、量的な指標から見る業務というのは、増え続けるのが当然だからである。
新しい課題というのは、毎日登場するのであって、終わることがない。
新しい課題が登場しない人がいたとするなら、それは未来に蓋をしてしまった人である。
毎日登場する新しい課題を前に、業務を量的に捉えるというスタンスでいると、昨日1だった仕事は今日には2になり、明日には3になり、どんどん増え続ける。
この状態を量的に捉えてしまうと、未来に蓋をするか破綻するかの2択にならざるをえないのである。
この問題を積極的な意味で解決するには、2つのアプローチしかない。
一つは、自身の能力を高め続けること。もう一つは、業務を質的に捉え、相対的に質の低い仕事を切っていくことである。
能力を高めることによって、やれることが増える。つまり、毎日1ずつ業務が増えていくとするならば、1日の処理能力が1より大きければ、毎日プラスを生むことができる。
また、質の低い仕事を後生大事にキープし続けても意味は薄い。
ガンガン切る。思い切って切る。そして新しい課題に取り組む。そうすれば自ずと質も向上する。

業務に量は関係ない。全ては質である。
そういう意味では、部署に割り当てられる「人員」というのも、多分に量的な発想であり、おおいに誤謬を含んでいると言える。
重要なのは、配置された個人が生み出す質(価値)である。
知識基盤社会においては、知識と知識のマネジメントに価値があり、そこに高い報酬が支払われる。
量的な指標で計測できる価値は、知識労働ではない。肉体労働である。
肉体労働を知識労働の下に見る意図はない。念のため。
ただし、知識基盤社会では知識労働の方により高い報酬が支払われる。
「業務量が多い」「部署に人が少ない」といった発想をもってしまう人は、いわば自身が知識労働ではなく肉体労働に従事していることを主張していることとなり、結果としてより低い報酬へ自分を誘っているのである。
そのことが悪いと言っているのではない。良し悪しの問題ではなく、結果として、事実そうなるだろうと考えるだけである。
なお、報酬の高低と人間の価値にも関係はない。
こういう話をすると怒り出す人もいるので、念のため。
職業人としての価値と、人間としての価値は分けて考える必要がある。
ただし、職場においては当然職業人としての価値が優先されることになるだろう。
報酬は人間性に対して支払われるものではないのだから。