松宮慎治の憂鬱

'04京都橘高校卒→'08大阪教育大学卒、私立大学に職員として奉職→'17広島大学大学院教育学研究科博士課程前期高等教育開発専攻修了,そのまま後期課程在学中。とあるきっかけ(http://shinnji28.hatenablog.com/entry/2015/01/10/050000)があって、実名でブログを始めることにしました。特に憂鬱なことはないのですが、大学職員仲間がタイトルを考えてくれたので、そのまま使います。

高等教育基礎論Ⅰ(社会学的研究)課題④-3 竹内 洋(1995)「第1章 学校効果というトートロジー」竹内 洋・徳岡秀雄編『教育現象の社会学』(世界思想社), pp.2-18.

大膳司先生ご担当回の3つめの課題です。
難しいけどおもしろかったです。

教育現象の社会学 (Sekaishiso seminar)

教育現象の社会学 (Sekaishiso seminar)

③竹内 洋(1995)「第1章 学校効果というトートロジー」竹内 洋・徳岡秀雄編『教育現象の社会学』(世界思想社), pp.2-18.

要旨

 スループット説によれば、学校教育において重要なのは言及されることなく無意識に伝達されてしまうカリキュラムである。しかしながら、スループット説は生徒が学校を通過した以上、生徒を変化させた原因は学校の中にあるはずだという思考にとらわれすぎている。宝塚音楽学校を例にとれば、“数々のスターを生んだ”宝塚音楽学校としての社会的定義が隠れたカリキュラムの一つと言える。われわれは選ばれた集団なのだという学校の社会的定義からのまなざしこそが学校教育効果に絶大な影響を与えているのではないだろうか。こうした制度的定義は、本来個人的定義よりもはるかに堅固であり、プライオリティをもっている。学校効果をもっぱら学校内部に発見しようとする考え方は適切でない。社会のなかに埋め込まれている制度としての教育という視点をもたなければ学校効果は十分説明できないのである。
 学校が制度化されるということは、卒業生が社会人となってからある地位を占める権利と正当性の社会的定義をともなうということであり、この社会的定義を認可状(「チャーター」)とみなすことができる。チャーターという言葉は、ジョン・マイヤーが社会制度としての教育の隠れた絶大な効果を明示化するために使用した。スループット説を内部効果説であるとするならば、チャーター理論は外部効果説であると形容することができる。さらに、制度としての教育(教育システム)は卒業生を社会的地位や役割に振り分ける<配分モデル>に留まらない。知識や能力の社会的現実を構成することによって、実は地位・役割それ自体を創出しているのである。
すなわち、教育システムとしての学校はチャーター効果を媒介にして実質を伴いつつあると言えるのであり、最終的に学校効果のメカニズムは、あらかじめ埋め込まれた出来レーストートロジーに到達するのである。

疑問や感想

 本稿については難解で理解に苦しんだ。おおまかに言って次のような理解でよいのであろうか。
 学校というのは本質的に社会的なものであり、「教育システム」と呼称することができる。教育システムは当初は社会との関係の中で決まるので、本質的な意義は薄い。具体的には、単に卒業生を社会的地位や役割を振り分けていくだけのモデルとして機能する。しかしながら、次第にそれ自体が社会的な意味合いを帯びはじめるようになり、結果として教育システムは社会的地位や役割そのものを生む機能を持ちはじめるのである。これは「できレース」であり、「トートロジー」である。すなわち、教育システムというのはある種の幻想の上に成立していることを理解する必要があり、<神話>や<近代社会の宗教>としての側面を捨象してはならない。