松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

研究者の凄み

今週末の日本高等教育学会のパワポ作成に腐心しているのだが、ありがたいことに連日指導教員にSkypeで指導いただいている。
その過程で、プロの研究者の凄みというものを身に染みて感じている。

  • 飽くなき追求心
  • 粘り
  • 妥協の無さ

など、単に職業としての研究者という物差しで測れないなにかを感じる。
「これはこうなんじゃないか」「いや、やっぱりこうじゃないか」と、どうすればよくなるかということに関する妥協がない。
いや、いつか必ず妥協されるのであろうが、ギリギリまで粘る。
実際にいただいているご指導だけでなく、こうした姿勢も大変勉強になる。
職業が違っても、プロとはこういうものだろう。

昨年、勤務先の先生と共同で発表したときも、同じようなことを感じた。
おそらくご自身にはほとんどメリットがないにもかかわらず、ギリギリまで電話でやりとりしてくださり、学会発表の要旨収録の提出〆切30分前の深夜23:30まで、一緒になって修正してくださった。
その際も一切の妥協がなかった。統計用語のフォントの一部がイタリックになってないとか、タイトルの「−」を「ー」にするとか、およそ考えうる限りの修正をやり尽くし、〆切30分前に「これでいこうや」と言ってくださった感動をいまでも覚えている。
これはメリットとかデメリットとか、そうした損得の観念では説明できない、研究者としての誠実さであろう。

思えば、学部のときは研究というものを誤解していた。
どこかに答えがあると思っていた。
だから、毎週毎週レジュメを提出することや、出しても出しても終わらない卒論に嫌気がさしていた。
これは一体いつ終わるんやと。
しかし、「終わらなくて当たり前」だったのだ。
研究という営みに終わりはない。
一旦の区切りというものはあるけれど、終わることはない。
ただ単位をとって卒業したかっただけの自分に、そのことは理解できなかった。
さらにいえば、答えもない。
学部のときは、どこかで先生が答えを知っているものと思っていた。
しかしながら、研究というものはこれまでに答えが出されていない問いを解くから研究なのであり、答えなど初めからない(見つかっていない)のが当然である。
もちろん、自分と先生ではまったく射程が違うので、「なんとなくの見通し」がわかることによって、ちょっとしたヒント等をいただけることはあったとしても、先生だって答えはわからないのだ。
すなわち、先生という羅針盤に頼りつつも、船そのものは自分の力で動かさなせればならないのである。