松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

「2014年度大学職員フォーラム」に参加

昨日までは、話題提供における自身の発言記録をまとめました。
今日は一参加者として、全体を概観した報告をしたいと思います。
掲載にあたり、許可は得ておりません。掲載そのものの問題や、文言の修正の必要等ありましたら、いつでもご用命ください。
ご一緒したみなさま、ありがとうございました。楽しかったです。今後ともよろしくお願いいたします。


名 称:大学職員フォーラム「日々の業務を通して見える学生の実状をどう捉えるか」
日 時:平成27年1月10日(土)13時30分~17時
場 所:京都私学会館

【ポイント】
・「日々の業務を通して見える学生」をテーマに、特に多様化の観点から1名の基調報告、3名の話題提供が為されたのち、パネル・ディスカッションが行われた
・参加者が大学職員に絞られていたことから、大学職員が学生にどう関わるのかということがそれぞれの基調報告や話題提供、パネル・ディスカッションで主要な話題となった
・自身の話題提供の質は、満足できるものではなかった。もう少し精進したい

【以下内容】

基調報告「若者たちの未来」(阿部真大先生・甲南大学准教授)

●ご自身の専門とロスジェネ論壇のレビュー
・専門は労働問題である
・学生が真面目になってきた。昔のようにノンビリ過ごして企業に入れる時代が終わった
・自分自身が就職氷河期の頃に大学4年生であった。そこで感じたことが社会学者としてのスタート地点である
・80年代や90年代だと、若者の問題というと、文化や消費の話であった。社会学の中では労働のことを勉強したいと思ったが、当時は若い人の労働問題はあまりはやっていなかった。90年代、2000年代以降、若者にとっての労働の問題が大きくなってきた
・かつては、「人生の決まったレール」(卒業→結婚→子ども→マイホーム、マイカー)があった。この、戦後日本の経済発展が可能にしたライフスタイルにのっかれない若い人たちが出てきた
・わかりやすい例が、非正規雇用者の増大である
赤木智弘氏は自分の一つ上の年齢である。『31歳フリーター。希望は、戦争』を2007年に発表した。日本の会社がリストラをしているのではなく、入り口を絞ってのりきったことを指して、中高年に同情を寄せつつ、若者の非正規労働に問題関心を投げかけた
・若い人の賃金の低さ、非正規雇用の話題が盛り上がったが、日本特有のこととして、世代間の問題となったことに特徴がある
・「貧困」は昭和に解決されていたと思っていたが、そうでもないということを示す雑誌なんかが出てくるようになった
・しかし、以上のことは「予期されていた」。1985年の経済企画庁の報告書には、団塊ジュニアの世代が既存の正規雇用体系の中に位置づけられなくなることの危惧が示されており、既定路線であった
・日本の場合、上の年齢層を切っていくという組織構成が難しい。また、景気の動向に若い人の就職がきわめて左右されやすい
・赤木氏は、怒れる視点から論じ、城繁幸氏は硬直化した日本型雇用への批判を行っている
・以上がロスジェネ論壇で語られてきたことであり、特に世代間の格差に焦点が当てられている
●ご自身の仕事
社会学者としての自分のことを話したい。2006年に『搾取される若者たち』『働きすぎる若者たち』で、若くて低賃金に甘んじている人たちを取り上げた。そういった人たちの間で生まれている新しい労働文化を述べたかった。そこで目をつけたのが「やりがい」である。「やりがいの搾取」という言葉があるが、やりがいがあるから賃金が低くてもいいんだという状況が生まれていること著書で述べた
・去年、クローズアップ現代で特集された「居酒屋甲子園」。典型的な低賃金労働のサービス労働に従事する若者が、居酒屋で働くことがいかに素晴らしいかを叫びあうというイベントの特集だった。それをどう見るか、ということについて企画段階からかかわった。番組の趣旨は「批判していくべき」というものであった。部活とかならいいが、それによって目にクマができて、、というのは違う
・大学でも労働者教育を取り入れていくべきではないかということを言っている。ブラック企業の問題もからめてのことだ
●最近の若者の変化
・50~60年代は政治の時代。70~80年代は消費の時代。90年代からはココロの時代。だから、「おもてなし」というようなキーワードは受け入れやすい。仲間や絆など、魂や心の充実を求めていて、消費を大事にしていた昔より成熟したメンタリティをもっている
・このことと、日本人の勤労意識がかかわっている。日本人は勤勉である。働くことを批判する大人は少ない。これがあいまって、若い人の労働に対する権利意識の低さが出てきている。これはきわめて日本的な問題であり、そのことを研究で指摘してきている
・特に介護の仕事をしている人はピュアな人が多いこともあり、現場の問題も多い
●労働問題から普遍的な問題へ
ワーキングプア非正規社員から正規社員に広がるワーキングプア問題や、名ばかり管理職問題がある。非正規社員にとどまらず、正規社員にまでいっている
ワタミ社員の過労自殺の衝撃は大きい。学生のことを考えると、他人事ではないなと感じる
・こうした中で、『資本論』ブームが再来し、むき出しの資本論が表出している。『21世紀の資本』の大流行がそれを示している
●変わらない社会
・2011年のNYでの「オキュパイ・ウォール・ストリート」に比べると盛り上がらなかった「オキュパイ・トウキョウ」
ブラック企業はあり、賃金は下がるが、世の中は変わらない。やりがいがあるから文句を言わないのか?それだけではなさそう。どうしてなかなか変わっていかないのか
●「家族」という問題
・20代の古市氏は、我々の研究を見て「若者自身に自分たちが弱者であるという当事者意識はほとんどない」「自分たちはものすごく幸せだと思っている」というような、実は大学生の満足度はきわめて高いのだという批判を行った
●若者の実態調査
岡山県倉敷市近郊で、轡田竜蔵先生と共同調査を行った。若者たちの地元志向がよいことなのかということを問うている。友人、家族の満足度が高い。人間関係に関する満足度は高い。社会に対する満足度はきわめて低い。田舎にいくと郊外化が進んでいる。町内界のうるさいおやじのような人はいないので、ノイズレスな社会が進行している。地域のしがらみを感じる人間関係が薄くなってきた
・ショッピングモールによって、余暇環境が劇的に改善された。地方と都市の消費の満足度がひっくり返ったのではないか。今の若者はひっくり返ったときから青春時代を過ごしている
・モータライゼーションと郊外化が進んでいる。大型ショッピングモールは「ほどほどの楽しみ」を与えてくれる。また、地元にもプライドを持っている。アメリカ的な郊外の豊かさを追い求めた集大成である。今の地方都市はきわめて豊かな場所に見えている。典型的な語りとしては、どこに住みたいかと聞くと、地方都市がいいということになる。都会は多く人が多いし、自然がない。かといって田舎すぎると生活に不自由が出てくる。その「ちょうどいい」感じが出てくる。これが典型的な語りである・でも、年収が低い。個人年収の中央地は200‐249万円。収入には満足しておらず、不安感もどうしても高くなる。親よりもよい暮らしができるとは思っていない。たぶんむりだ、と思っている
世帯年収で見てみると、中央地が400万円台になる。世帯内単身者の中央値は600万円であり、最も高い数値が出た(「パラサイトシングル」の問題)
・日本人の家族観では、自立はあまり重視されない。いつまでも親と暮らしていても、むしろ親孝行といわれる。そうすると、親と離れるという契機がない
・親にパラサイトする未婚者を描いたのが、山田昌弘『パラサイトシングルの時代』。親と一緒に暮らすよりも結婚する方が、生活水準が落ちるという話が述べられているが、若干ニッチな感じがしている。東京で年収一千万ぐらいの親と住んでいるという学生だとそうかもしれないが……。タイトルからもわかるように、リッチな女性シングルを対象にしている
・それよりも若干話としては進んできているのではないのかと言っていたのが宮本みち子著『若者の家族形成条件の弱体化(2007年)』である。こうしたことを、社会的弱者の問題としてとらえる必要があるのではないかと触れている
●持続可能な「幸福」へ
・古市氏の論「幸福」。たしかに幸福だ。低賃金なサービス労働は、おもてなしの仕事なのでやりがいを感じる。家族と暮らしているので家はある。イオンモールもあり、休日は友人と話すことができる。たしかに幸福だが、果たしてそれでいいのか?ということだ
・東京の調査では見えてこなかった。若い人が生活困っているというのは、東京や大阪で、単身で暮らしている若者の話である。地方に行くとほとんど同居しているので、そういったものがほとんど出てこない
・幸福かもしれないが、若者の自立を阻害する要因になっているのではないか?「今、幸福だからいい」ということではない。その状態が続くということが必要だ。政策的な目標や、教育者として教育に関わっていく中で必要だ。その視点が今の日本では著しくかけている●家族の再生産-定位家族から生殖家族へ―
・ぐんぐん人が減っていくというのはマズい。家族が再生産される仕組みを整えなければならない
・パラサイトシングルは、再生産しない家族である。親は親であり、子どもは子どもであり、その子どもはもう子どもを作らない。子どもとして生まれる家族を「定位家族」と呼ぶ。ここから、親「生殖家族」になれるような制度的サポートが必要である
・若者は「親になる未来」を奪われていると言うこともできる
・引きこもっているから外に出そう、からもう一歩踏み込もう。親元を卒業するということに視点を置いてはどうか。親と一緒に暮らすということがむしろ親孝行(特に娘に関しては)という文化からの脱却が必要だ
・親の側からも、介護不安や同居期待が高まっている。特に娘に対しては同居期待が高まってしまう。そういった意味では、子どもと親がお互い自立を阻害しあっていることが、今の日本の家族のある種の病理的な状態である
●若者の未来-何のために生きるのか?-
・モラトリアムが長期化しているということを感じる
・長い目で見て、大人になることの重要性を説く必要がある
・親となって、労働者としての自覚を持つ、ということが大人になるということではないか。そういうことをバックアップしてあげることが重要
・「夢の叶え方」ではなく「夢のあきらめ方」を教える。夢の叶え方を大学で教える必要があるのだろうか。中学生や高校生に対して言うのはいいが、、
・「やりたいことはあるけどうまくいきそうにない」という学生はたくさんいる。マスコミに入りたい、代理店にはいって企画をして、そういう学生はたくさんいる。就職活動をする中で必要なのは、「それは無理だ」と気づくこと。「好きなことだけやりなよ」と言うことは指導教官として無責任。本当に自分のやりたいことじゃなくても、人生ほかに大事なことがある、やりたいことはいったん置いておいたら?という話を現実的にはすることが多い
●質問
・親の存在、モンスターペアレント、ヘリコプターペアレント。学生と接していると、その背景の親を感じて、のように見えることがある。そうした学生をどう自立させればよいのか(質問者)
→根深い問題である。親と子どもが一体化している状況は日本的だ。サバティカルにいっていたオーストラリアでは「二十歳を過ぎて親元にいると恥ずかしい」という西洋近代的発想がある。お金がなくても親元を出る。日本的文化の根底では、家を誰が切り盛りしているのか、という相続の発想があり、社会的な要請も弱い。過干渉な親というのもきっと今に始まったことではない。日本社会が孕む根源的な問題ではないか。20歳を過ぎた子どもが親とベッタリであることを「恥ずかしい」という社会の空気感がないと難しい。彼らの側に立ってみると、親と同居することが親孝行だ、というのもある。これは、どっちもどっち。子どもに干渉する親も、親孝行をしたい子どもも、両方ある。共依存を引き離していかないといけない。そうしないと彼らは大人になれない。教職員との関係だが、教員の立場としては、就活のときが一番わかりやすいが、「親のアドバイスは聞くな」と言っている。「親とは時代が違うし、たぶんとんでもないことになるよ」と。新人類世代は就職がよく、内定をもらったあとディズニーランドに連れて行ってもらった世代だ。だから、自分の頭で考えないといけない。自分はリベラルな考えをもっているが、あえてふつうの大人の意見を言うときもある

話題提供①「多様化する学生対応について」(松田優一氏・関西大学学生サービス事務局学生生活支援グループ)

関西大学における学生生活支援の総論について話したい
・自分が学生時代に関大がGPとり、ピア・サポートの立ち上げにかかわっている。それをそのまま、今仕事にしている
●今日の学生の実相
・関大の学生生活実態調査からは、多様な悩みが見てとれる
・学業をのぞくすべての項目で、不安や悩みが増大していることが明らかになった。家族や家庭内の悩みは、一番低いものの、存在はしている
・不安や悩みの解決方法については、「自分自身で解決しようとする」が一番多い。こちらも増加傾向にある。また、そういう学生は男女比で見れば男子学生の方が圧倒的に高い
・職員の感覚としては、コミュニケーションが苦手で、自身の感情をうまく表現できず、自覚も危機感はもっているという印象がある。また、そうした学生はバリアをはっていて、他者になかなか弱みを見せない
関西大学の取組み
・大学ピア・サポートの特徴は、小中高におけるピア・サポート活動は教員を中心に計画される「教育活動」であるが、大学でのピア・サポートは学生の主体性を尊重する「課外活動に近い」
●大学におけるピア・サポートの現状
日本学生支援機構の最近の調査によれば、日本の大学の43.6%でピア・サポート活動が行われている。
・国立大学では80%以上の大学でピア・サポート活動が行われている。
・一口にピア・サポートと言っても、多様な活動が展開されている。
●事例1:学生寮運営に係る学生の育成(ピア・サポート研修プログラムの教育的効果)
学生寮運営の中で、ピサ・サポートのプログラムを導入してみた。規律ある共同生活を送りながら、自主的に寮を運営するには、一定のスキルが必要だと考えたからである。寮の問題点として、学生気質の変化が大きかった。入寮希望者が減少し、退寮希望者が増加している。2人部屋だから、それを敬遠する学生が増えている。また、入寮希望者にコミュニケーション能力を高めたいという学生が多い。そのため、入ってみて人間関係をうまく作れず、退寮していくことが多い
・日本ピア・サポート学会のピア・サポーター養成プログラム内の「コミュニケーションの基礎」を実施した。「コミュニケーションとは何か?」「ミス・コミュニケーションはなぜ起きるのか?」「聞き手の態度が話し手にどのような影響を及ぼすのか?」等についてワークショップ形式で学んでもらった
・今の学生は非常にまじめなので。方法論を教えてあげると大いに吸収する。特に学生寮の学生は、もともと自分のコミュニケーションに不安を感じているので、非常に効果があった
・研修を経て、ピラミッド型の統治から民主的統治への転換に繋がった。
●事例2:関西大学ピア・コミュニティの取り組み
・8つの団体があり、それぞれに支援部局がついている。ピア・サポートの効果については、2011年度に日本学生支援機構の調査結果で、学生の能動的態度やコミュニケーション能力が高まったということが示されている
・支援されていた側から、支援する側への行動変容が起きる。友達がいなくて友達づくりのイベントに参加した学生が、500人の講演であいさつをしたり司会をしたりするようになる。適切に周囲がサポートすれば学生は伸びるし、その可能性をピア・サポートは秘めている
・でも、ピア・サポートは職員のお手伝いではない。それでは本来のピア・サポートにならず、学生の成長も生まれない。三位一体でサポートしながらともに成長していくということがないと、成長も難しいし、継続的に行うことが難しい
●質問
・ピア・サポーターの定義についてもう少し教えて欲しい。図書館の窓口にいる学生や、情報センターでパソコンを教えてくれる学生はピア・サポーターか?なんでも相談室の学生も?自分はそう感じていたが、今のお話をきくとそれだけではないような気もした。ある種の対学生サービスだけではピア・サポートとは言えないのかなと感じたが、一番の違いはどこか(質問者)
一番の大きな違いは、ピア・サポートは「教育活動」であるということ。基本的な知識やスキルを修得した上での活動でないと、ピア・サポートとはいえない。毎回、知識や技能を伝達する必要があるかというとそれはないが、適宜大人の目線、専門的な目線でスーパーバイズしているかが重要である
・17年度の調査の数値(課外活動をしている学生、アルバイトをしている学生)は持ち直しているが、何かあったのか?おそらく松田さんが入学したころだと思うが(質問者)
→大学の届出団体が増えたというところが大きいと思われる。

話題提供③「大学教育・支援の課題について―決め手のない実状を踏まえて―」(磯崎清之氏・立命館大学理工学部事務室)

・最終的になかなか決め手がない。ブレイクスルーしたような気があったときもあるが…
・「自己責任」という4文字は本当に楽だが、使わない言葉としておこうと思っている。大学人としての務めを放棄しているのでは?
・世間は大学や大学生に対して厳しい。我々はなかなか世間の声に抗えない
・一人前にするところが大学。社会の責任や自己責任はできない
・キャリア教育が就活寄り教育みたいになっていた
・大学は最後の教育機関である
・低回生のときに、なんとかできないかと思っている
・学生はつみあがっていかないとダメになってしまう。もう少し逃げ道がないのだろうか
・いい人事は大学教育の中にも何かあるんじゃないのかということを知っている。プロである教員から、ダメ出しをプロから食らっているだろうかということを一番見ている
・「教育に関心がない」ように見える教員であっても、学生が伸びていくことを悪く思う気持ちは絶対にない
・緩やかに繋がっている、ということが大事。先生方が、学生と学生を繋ごうとする

パネル・ディスカッション

➢景井先生のコメント

阿部先生に対して:
若者をどう守るか、ということがテーマだったのではないか。今の若者は結構ハッピーである。多好感と、将来への不安が同居しているんだなという印象をもった
松田氏に対して:
「無縁化」という言葉を思い出した。かつての集団性を伴う若者文化、それがほとんど見られない中で、すすんだ無縁化をどう変えるか。その宣言がピア・サポートなのだと思う。自治活動の先には、誰に何が手にはいるのか
松宮に対して:
学生の多様性はむしろなくなっているんじゃないか、一面化が進んでいるんじゃないかという印象をもった。大学の責任は多様性を担保しつつ演出することではないか。また、その先に何があるのか
磯崎氏に対して:
みなさんに聞きたいことは、窓口について。国立大学の窓口は国の出先機関。エラそうな態度をとる木端役人みたいな人がいた。学生は教員と職員をわけてみていない。「大人」として見ているのではないか。そういう社会の媒介としての立場を踏まえてどうか

➢松宮のコメント

・「その先に何があるのか?」「媒介する立場としてどうか?」というご質問かと思う
・一つ目については、考えていない。先に何があるかはわからない。そのわからないということを楽しみたいと思っている。
・2点目であるが、職員の立場を生かす、強みを生かすということを意識している。職員は教員ではないので、学生を評価することがない。教員はどうしても、A、B、C等の成績をつけなければならない。私にはその必要がないので、どんなあなたでも受け止めますよと言うことができる
・また、職員はカウンセラーでもない。以前、カウンセラーの先生が話す望ましい窓口対応という研修を受けた。そこでは、「○時までね」と学生に伝え、時間を区切ることが望ましいと言われていた。しかし、自分はカウンセラーではないので、その話を聞いてむしろ時間を区切るまいと思った。カウンセリングが必要なら、カウンセリングルームに行けばよい。カウンセラーにできないことをしなければならない。その意味で、カウンセリングの世界では通常言ってはいけないであろうことも、あえて言ったりしている

➢阿部先生のコメント

・「学校化」の進行と学校に対する期待の高まりを感じている。学校の役割が巨大化している。介護の現場でも常に問題になるのは「どこまでやるか」という問題である。全部やるということになると、支える側が倒れることになる。特に若い職員が倒れないように上司が見ていく必要がある
・教員としてどう接するのか。授業をやっているので、大きなビジョンの中で大学教育をすることが大事かと思っている。多少彼らにとってはキツいことであっても言う。日本という国をしょって立つ人材を育てることが大学の役割だと考えている。才能をもった学生であるならば、育てたい
・学生と話していて思うのは、自分の学生時代のまわりにはギラギラした奴が多かったことで、「やりたいことなんだ」「野心を持て」とか言ってしまいがちであった。「ぼくはいいです。おとなしく生きていきたいです」という学生が多い。彼らにとっての大学とは何か。夢や情熱の全くない学生にとってどう向き合っていくかが課題である

➢松田氏のコメント

・「どこまでやるか」に明確な答えは持っていない。日々の目の前の学生への対応でいっぱいいっぱいだというところもある。その学生にとってどこまでが必要かを考えて行動している。一概に線引きができない
・学生の視野は非常に狭いので、学生の視野を広げてやりたい

➢磯崎氏のコメント

・先生方のことは真面目に重く感じる学生が多い。真面目に悩んでいる学生。立命の理工では配属された卒研室を簡単に変更できない中で研究が行き詰まり、先生に相談できず一人悩む学生もいる
・社会との媒介について。大学教育を人生の中に位置づけるということが必要だ

➢景井先生のコメント

・学生の存在から見た私たち。一方、私たちから見た学生を見誤ってはいけない。学生という言葉の持つ暴力性がある。世代的な社会問題が大学にはある。学生という言葉が学生を大学に囲い込んでいないか。今日のテーマそのものをメタレベルでとらえなおす。大学というものを学生に都合よく押し付けるべきではないのではないか。たまたま出会っただけではないか
・今の若い人のナルシシズム。保守的ではなく、「保身」。さまざまなリスクを回避する。それが結構大きな行動原理になっている

質問

・学生支援(大学教育)を考えるときに、教育を提供するのは教室だけではないと大学は思っていても、学生がそう思うかどうか。大学という場、全体が学びの場だと認識するような工夫があるかどうか(質問者)
→それは学生が選ぶことだと思っている。大学のどの部分を利用するのか。私はここを使いたいというようなことは学生が選べばよい。問題は選べるかどうかである。そのために多様なメニューを用意し、自由に選べる制度設計が為されているかどうか。しかしながら、日本の大学では一度入ってしまったら容易に移動できない。その仕組みの中で多様なメニューの用意を突き詰めてしまうと、大学が均質化してしまう。本当は、大学入学後に簡単に移動できることが必要だ。入学後に一定の枠組みのでメニューを選ぶのではなく、前提となる枠組みから選びなおせる状態が欲しい(松宮)
→全体的に甲南大好きな雰囲気に包まれている。縦割りをやめるとか、制度的にはいろいろある、愛校心をもってもらえるかどうかも大切だ(阿部先生)
→「言うしかない」。言わないとわからない。大学が何を考えてそのことを用意しているのか。それを説明する。今の学生は納得感を求めるので、そこをきちんと説明する(松田氏)
→学生が滞留したくなる雰囲気が必要だ(磯崎氏)