松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

場の持つ価値は先鋭化する?―大学教育学会 課題研究集会に参加して(1)―

「大学教育学会 2014年度課題研究集会 1日目」の報告 - 松宮慎治の憂鬱

「大学教育学会 2014年度課題研究集会 2日目」の報告 - 松宮慎治の憂鬱

2日間参加してみて、ただ参加しましたっていうのでは、それはそれで意味があると思うのですが、個人的に好きでないので、記憶の新しいうちに、感じたことなどをきちんと書き留めておきたいと思います。

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◎場の持つ価値に関する思考の変遷

1日目のシンポジウムでは、MOOC等のテクノロジーの発達によって、どんどん場の持つ価値が浮き彫りになっていくような気がしている、と渡部真一先生(東北大学)が仰いました。これに対して、コメンテータの吉見俊哉先生(東京大学)が、場・身体・ローカルといったことをキーワードに、知が生まれる場所がどこか?ということが、新しい教養知を考えていく鍵になる、というような論点を示されました。

このことに関して、私は3,4年前までは、場の持つ価値は失われると考えていました。ここ1~2年は、むしろ場の持つ価値は先鋭化するだろうと考えていました。そして、この課題研究集会を終えて、場の持つ価値は、実は昔も今も大差なくて、不変的に有意味なのではないか?と思うようになりました。この思考の変遷を今日は記したいと思います。

◎場の持つ価値は失われると思っていた頃

 「gacco 統計学Ⅰ:データ分析の基礎」の1週目が終了 - 松宮慎治の憂鬱

こちらの記事の最後で軽く触れたのですが、Coursera、edXという2つオープンコースウエアの特集を経済紙で読んだ時、自分の職場はなくなるかもしれない、という感覚をはっきりと覚えました。

というのも、これは大学というモデルの価値を根幹から揺るがす仕組みだからです。

考えてみれば、近代教育における大学は、その閉鎖性にそれなりの価値があったわけです。ある場所で、優れた研究者や教育者たちが難しいことをやっていて、そこに入るためには選抜されなければならない、というのが近代の基本的な大学のモデルだったと思います。すごい講義がオンラインで見られて、単位認定され、なんなら成績優秀者には企業からオファーがくる、という仕組みは、このモデルを根幹から揺るがすものだと感じました。

これからは、エラい先生、すごい先生が世界に1人いればよくなるのだ、と思いました。

◎場の持つ価値は、むしろ先鋭化すると思っていた頃

しかし、エラい先生、すごい先生が世界に1人いればよい、という状態にはおそらくならないだろう、ということに途中で気づきました。

気づいたきっかけは、仕事で先生方の履歴書・業績書をたくさん拝見したこと、そして自身も学会発表を行うようになったこと、です。こうしたことに触れているとすぐにわかることなのですが、教育研究というのは、1人ではできないです。同じ立場の者同士が批評し合い、研鑽しあうことで、新しい知見が積まれていきます。確かに、世界トップクラスの研究者はいて、その人の授業をオンラインで配信すれば、たくさんの人がそのトップクラスの研究に触れることができるようになります。でも、その人の研究は1人で生み出したものではありません。先人の積み重ね、そして同時代を生きる仲間のピア・レビュー、こうしたものがあって初めて成り立つものだ、ということに気づきました。

では、場でできることは何か。それは、オンラインではできない学びを得ることです。一方的な知識伝達なら、そんなのはオンラインでいいよということになるので、その場でしかできないことは何なのか?ということを真剣に考えねばならなくなります。こんな風に、場の持つ価値は先鋭化していく気がしました。

◎場の持つ価値は、今までもこれからも同程度に尊いのではないか?と考える今

吉見先生が仰っていたように、活版印刷の技術は革命的で、それまで大学の知を得ようと思うと旅をしなければならなかったのが、書物を読むことで満たされるようになりました。実は今起こっているMOOCsのブームも、これと同列に扱える程度の衝撃に過ぎないのではないかと、今は考えています。

確かに、活版印刷の発明によって、旅をして大学に行く必要はなくなりました。でも、やはりゼミや実験室のように、場でしか得られないものも相変わらず残り続けました。MOOCsではオンラインでのディスカッションや、対面授業のオプションがあったりしますので、近代教育のゼミ的な要素を持っているかもしれません。でも、もしゼミの要素がMOOCsに吸収されたらされたで、また別の、場でしか得られないものが、相変わらず残り続けるだけのことではないでしょうか。それが何なのか?という議論は別にして。

残り続けるものの価値は、いつの時代でも不変で、ただし、何が残るのかが不透明だから、みんな少しの不安を抱いてしまう、という状態なのかなあと。

◎余談

もう少しテクノロジー(特にヴァーチャルリアリティ)が発達すると、また変わってくるかもしれません。例えばSFテレビドラマ『スタートレック』では、ホロデッキという装置があって、この装置を使用すると、任意にプログラミングされた、実感として現実とほとんど変わらない世界に身を置くことができます。

このぐらいテクノロジーが発達すると、「場の持つ価値は、いつも同程度には尊い」なんてことは言えなくなってくるかもしれませんが、しかしそこまで現実と区別のつかないバーチャルリアリティとなると、その空間はもはや限りなく現実の場とイコールになってくるので、「これは場そのものだ」と言いきってもよくなるでしょう。