松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

「大学教育学会 2014年度課題研究集会 2日目」の報告

「大学教育学会 2014年度課題研究会 1日目」の報告 - 松宮慎治の憂鬱

昨日の続きです。行ってみて感じたことなどは、別記事であげようと思います。掲載にあたり許可は得ておりませんので、掲載そのものについての問題や、修正の必要等がございましたらご用命ください。

日 時:2014年11月30日(日)9:30~15:30(2日目)

会 場:神奈川工科大学

テーマ:日本社会における大学教育の意義

内 容:

【シンポジウムⅠ】

テーマ:「学士課程教育における共通教育の質保証」

①「共通教育のマネジメントにおける現状と課題:全国調査の結果から」(大正大学 高野篤子先生)

・共通教育の質保証に向けたマネジメントに関する国内外の理論および実践の現状把握を行う

・REAS(リアルタイム評価支援システム)を利用したWEBアンケートによる全国調査の結果を報告する。共通教育のマネジメントにおける現状と課題を明らかにしたい。目的は、現状の把握とマネジメントに影響する要因を示すことである

・回答大学は4年制184(24.6%)、短期39(11.2%)

・組織文化に関する要因はPDCAの機能状況と関係があり、共通教育のマネジメントを理解する上で無視できない

・「大学の特徴」「実施運営体制」に関する要因と比べても、「組織文化」に関する要因はもっともPDCAサイクルの機能状況との関連が強かった

・国立大学は「共通教育の点検・評価に関する機能」が強い。さらに、機能は共通教育の運営組織内にある。データに基づく点検評価も7割近くに体制があることがわかる

◎まとめと今後の課題

・初年次/リメディアル系科目に比べ教養系科目はマネジメントが難しい

・国立大学における共通教育マネジメントは他の設置形態にも参考になる可能性がある

・点検・評価の機能があり、個別の大学でどのように位置づけられている、これによってPDCサイクル全体をうまくまわせる

・共通教育のマネジメントには組織文化が大きく影響している。組織のハード面に注目した研究に比べ実証的な研究はあまり蓄積されていない

(質問)

・「初年次/リメディアル」はどういう想定で設計されたのか?設置基準ではリメディアルには単位を出すなと言っている。(関西国際濵名先生)

→括りの問題はグループでも議論された。到達目標の共有がしやすいという意味で一括りにした。共通教育における課題が拾いやすくなると考えた

②「山口大学におけるケーススタディ―質保証のためのマネジメントに着目して―」(山口大学 林透先生)

・学修成果の評価を共通教育において活用するためのマネジメントの実践的課題の抽出を行う

ケーススタディのための観点として、3点を示す。1.教育目標設定を起点としたアセスメント、2.教育マネジメントの大前提としての「組織構造」と「組織文化」、3.評価ツールを通した教育マネジメント変化の可能性

山口大学の共通教育改革

・肥大化していたので縮小したかった。また、センターが所管していたが、少し学部にも責任をもたせたかった

・共通教育における質保証マネジメントサイクルは外形上、構築されている

・国立大学の場合、旧教養部からの組織構造・組織文化が温存されている

・質保証マネジメントは実質化しているのか?

・学生のニード、ラーニングコミュニティのニード。何のための学習目標、何のための質保証かと問わなければならない

◎質保証のためのマネジメント手法開発の視点(まとめ)

・次の3点が期待される。「教育理念(DNA)の自覚化・覚醒」「職員の協働体制の自覚化、学生参画による相乗効果」「外部情報による変革誘導」

(質問)

・調査の設計に階層構造は入っているか?たとえば、学長、学部長、学科長、教員個人という階層間の乖離の視点は持っているか?教員個人と組織の葛藤はないのか。(東北大羽田先生)

→階層は理解している。その上で語り合う場が必要かと考えている

③「学士課程教育における数学的リテラシーの考え方について」(大阪府立大学 高橋哲也先生)

・(背景)数学的リテラシーの必要性はどこでも書かれている。でも、数理科学に関する科目は文系ではほとんど履修されないという現実がある

・教養としての数理科学教育を主対象にした

・(目的)数学的リテラシーの育成に数理科学分野の科目の教育がどの程度貢献しているのか。学士としての数学的リテラシーの範囲と水準を規定し、達成度を測定した

・国立1校、私立2校へヒアリングに行ったところ、数学的リテラシーに関する教育は個人の努力で行われている部分が大きいことがわかった。また、アセスメントより教材の共有が優先するような気がした

・(中等教育との接続について)数学的リテラシーの教育は、実は義務教育段階では一定の成果があがっている。国際調査の結果からもそのことがあかる。一方、数学を使うことが含まれる職業につきたいかどうかという質問(TIMSS2011における)に「強くそう思う」「そう思う」と答えた学生はいずれも最下位だったことも併せて指摘しておかなければならない

数学が社会で必要だ、役に立つ、将来の職業も含めて人生で必要かもしれないという認識が、日本の児童・生徒だけ少ない。受験に必要だ、というように、入試だけが動機だと、終わったあとの動機がなくなってしまう

・私大文系クラスだと、数ⅠAの履修で終わってしまい、「数列」「ベクトル」(数学B)「指数関数・対数関数」(数学Ⅱ)について高校で学ばない可能性が高い

・学習指導要領にも「預貯金やローンなどの仕組みは、等比数列や指数関数についての知識等がなければ理解しにくい」と書いてあるのに、、

・高大接続部会で検討されている新テストによっては、数学的リテラシーが高校段階で一定程度確保される可能性もある

・教育としての接続をやっていかないと、高大が互いに責任を押し付け合う状況が続く

・文系の学生には数学的リテラシーを身に着ける科目は、あったとしても教養科目として提供されていて、受講する学生はごく一部で開講科目も少ない

大阪府立大の取組み

・現代システム科学域での数学教育として、文系向けの数学を導入した

・苦手な学生は、数式や図による数学的説明についていけない。現実的な意味を離れた抽象的な記号や数式には数式が持てないのであろう。よって、とにかく日常的な文脈の中に数学を用いる活動を充実させた

◎まとめ

・現状では数学的リテラシーを身につけることを学修成果目標としている大学は少ない

・数学的リテラシーを学士課程で身につけることの必要性の認識が重要

・アセスメントは現時点では意味づけが難しい。教育目標がないのに、アセスメントを検討するのは困難

・高大のカリキュラムの接続が重要なので、高大接続部会の中教審答申の行方も注視している

(質問)

・(高橋先生へ)文系で数学を導入された。これ自体が実質的な質保証なのではないか。評価を気にされているが質保証=評価、ではないのでは?学士課程全体にストーリーがあるのかないのか。数学教育の質保証というより学士課程教育の質保証だ(首都大学東京大森先生)

→おっしゃるとおり。でも、文系での数学導入は一部であり全体ではない。したがって控えめな表現をした。(高橋先生)

→問いかけやストーリーは大事にしているつもりだ(林先生)

→ルーブリックを始めた動機は?(大森先生)

→科目をどうよくしていくかいうことがスタートだった(林先生)

・(高橋先生へ)数学的リテラシーの育成に、数学科以外の先生方をどう関与してもらっているのか?(東北大羽田)

→元々文系の先生の要望からスタートしており、継続的にすり合わせを行っている。そうした意見交換の仕組みが必要だ(大阪府立大高橋)

(進捗状況へのコメント)

関西国際濵名先生)

・全体から見ると昨年より着実に進んでいる。個別に見ると高野先生のものは厳しい。調査票で得られた知見で乱暴に物事を言うのは怖い。重要な主体は誰なのか?ということだ。責任と権限体制への権限が非常に弱いので、やり方を変えた方がいい。事例やシラバスを検討するなど、地道なアプローチをしてほしい。林先生のはあと何がほしいか。山口大学のアセスメントポリシーが欲しい。教養教育の質保証マネジメントは誰がどう責任をとっていくのかということだ。専門部局か、特定の管理職か。活動の総動員体制はよいのだが、主体は誰か。高橋先生には昨年辛口のコメントをしたが今年は感心した。何が一番変わったのだろうかと思うと、高橋先生がやっているような活動が高大接続の答申に入るだろうと思われることだ。教育内容での高校と社会との接続が問われている。理科の中に数学の要素を、社会の中に数学の要素を、そういうところから始める。従来の教科の切り分けではなく、数理的能力をもっていく。数学教育のメタルーブリックのようなものを構築されてはどうか。日常生活の中で使われる数理的能力というものがどういうものか。そういうアプローチをお願いしたい。基礎と社会教養。その際に、既存のテストは使い道がないのだろうか?例えば数検はどうか。既存のものをルーブリックとつなげて発展させることはできないだろうか。また、数学を義務化するときにポリシーはどうさわったか?補足してほしい。

文教大学小林先生)

3つ挙げたい。なお、これは自分の主観である

1.初年次教育に比べて教養教育はPDCAが回りにくい原因は突き止めて欲しい。遅行性があるのか?

2.数学的な方についても、もう少し前向きな評価指標を取り入れて欲しい

3.山大と府立大の取組。先進的。追跡調査をしてほしい

また、課題研究はメンバーだけで進めるものではない。会員を巻き込めるようなワークショップ等を開催してほしい

 

【シンポジウムⅡ】

テーマ:「FDの実践的課題解決のための重層的アプローチ―重層的FDのフレームワークとFD推進者の役割」

★経緯説明(大阪大学 佐藤浩章先生)

・2012年6月に研究委員会を立ち上げ、3年間取り組んできた。2012年11月の課題研究集会では、研究の意義とアプローチ、学習理論、学習に関する枠組み提示と量的調査を行った。2013年6月の大会ラウンドテーブルでは、枠組みを提示し、FDのケーススタディを行った。12月の課題研究集会では、組織学習理論・学習に関する量的・質的調査を示した。今年の大会ラウンドテーブルはFDケーススタディのその2を行い、今日の課題研究集会で、FD担当者の調査と、統合された知見の整理を行う

・FDの実践的課題解決のための重層的アプローチは、外側からマクロ・レベル、ミドル・レベル、ミクロ・レベルの3層構造で概念を捉えている。そして、その中心にあるのが「質を重視した学習」である。この中心のところで、学習観や教育観を大切にしている。ミクロ・レベルは主に個別の担当者を、マクロ・レベルは組織を想定し、後者では組織学習論も援用した(2013年課題研究集会)。ミドル・レベルがなかなか見つけられなかったのだが、信州大学を事例として検討した

①「大学教育の実践的課題解決に向けて,FD推進者はどのようにアプローチしてきたのか―FD推進者の生態と可能性―」(愛媛大学 山田剛史先生)

◎私のスタンス

・見下ろすのではなく、険しい山道を歩くようなスタンスを持っている。また政策に対しては、拒否するのでも賞賛するのでもなく、「使えるものは使う」というスタンスを持っている。できれば最終的には乗りこなしたい

・FDを進めていく基本的なところをデータに基づいて検証することをやってきた。誰のための何のためのFDなのか?管理職、教員、学生…

・狭義のFDである授業改善が出発点だ。でも、それ以外もある。最終的なFDのゴールは学生の学び、その成長とその支援だと考えている

・FDを担う人は誰なのか?担当者と推進者は何が違うか。管理職(全学・学部)→FD推進者(全学)→FD担当者(学部)→教員(学部)という広がりのある階層で捉えている。今回使うデータはFD推進者のものであり、ここをファカルティディベロッパーと呼びたい

◎本研究の目的

・FDを推進するために必要な要素、あるいは課題を明らかにすること

◎調査の概要

・ミクロ・レベルは共通性が高く、マクロ・レベルは多様性が高い。また、ミドルは非常に少ない。これは、カリキュラムレベルのケースを想定している。本来はここが本丸なのだが、数が少なくて難しい

・FDを仕事としてやっている人は「講演型」が多い。FD担当者が介入する場合は、実践型が必要

3領域を超えていく活動もあり、むしろそのことが有効である。でないとその場限りの単発のFDが続いてしまう

・「ミドルアップダウン型」が特に期待できる。たとえば、3つのポリシーを策定する際に、担当者が集められて作文をし、教授会で承認を得て、公表する、というようなことが多いのではないか。そうではなく、全体の質保証の枠組みを明示しながら、部局の独自性も保持すること具体的なプロセスやデザインが必要だ。そのためには、当然執行部の理解を得ることが必要になる

◎FD担当者はどんな力を身に着けたか?何が必要だと思っているか?

・一番高かったのは、熱意や信念をもってFDにかかわること

・必要だと思われているのは、状況、文脈の把握。ニーズやシーズの収集・分析

◎FD担当者の生態

(1)触媒としての機能(既にその人が持っていることを引き出すこと)

(2)持続性(改善は一発で終わらない。いかに続けてもらうか)

(3)価値・目的の明示(自問自答と発信方法の工夫)

(4)心身の健康

※いかにプロセスを大事にしているかということを分かってもらいたい

・正解は存在しない

・手段の正誤や好き嫌い、理想論で止まっていてはいけない

・現実を変えるための挑戦を

・走りながら関係者と協議し、最適解を見つけていくしかない

・接着剤は関係性と粘り強さ、それを支える熱意・信念

・根拠や論理を駆使して、一貫性のあるストーリーやグランドデザインを描き、自ら渦中に飛び込む

・臨床の知見を結晶化する知の枠組みが必要(学としての体系化、ネットワーク、相互研修、アイデンティティ等)

②「重層的FDのフレームワーク」(大阪大学 佐藤浩章先生)

◎得られた知見

  1. FDの担い手としては、教員、FD担当者(学部・学科所属のFD委員等、全学センター等のFDer)、管理職(学部・学科、全学)が存在しており、それぞれ役割が異なる
  2. 各FD実践の根底にはそれぞれ教育目標が存在しており、さらにその根底には教育・学習観が存在している
  3. FDの究極目的は、組織の目標と個人の目標が同時に達成されることである。FD担当者の役割はそのために組織の発展と個人の能力開発を担うことである
  4. FD担当者の役割は各層の人・知識・情報を超域的に、縦横につなぎ、調和させていくこと(Tuning)である。例えば、全学の教育目標、カリキュラムの目標、授業の教育目標を調整していくことや、学部間を回り全学的なFDニーズをまとめあげていくことである
  5. こうした「つなぎ」の役割が最も求められるのがミドルFDであり、負荷が高く困難を伴うが、成功すればミクロFDとマクロFDを同時に展開させることが可能となる。全学のFD担当者が最も介入しにくい領域でもある
  6. この間の大学を取り巻く社会の動きや大学で日々生じている実践は、日本のFDの伝統的な定義を拡張させることを求めている(例:緊急倫理への対策)

◎FDの定義

◆研究会開始時

学生の学習を促進するための、授業改善(ミクロ・レベル)、カリキュラム改善(ミドル・レベル)、組織開発(マクロ・レベル)の取組み

◆現在

大学教員に求められる総合的な学術能力開発の取組み。個人(ミクロ・レベル)、学部・学科組織(ミドル・レベル)、全学組織(マクロ・レベル)の三層で構成される。

※「学術能力」とは、研究能力、教育研究に加えて、組織を率いるリーダーシップ(管理運用能力)、国内外の社会との関係構築能力といった諸能力を総称したものである(Debowski,2012)

◎重層的FDのフレームワーク

  1. 教育のみならず、研究、管理運営、社会連携といった大学教員に求められる総合的な能力にまでその領域を拡張した(本研究においては教育能力開発部分に限定して論じてきた)
  2. 中核(ハブ)部分には、組織の発展(Organizational Development)と個人の能力開発(Personal Development)が併記された
  3. 中核から周縁部分に向かっては、各層のFD実践の背景には目標(教育の場合は、授業目標、教育課程目標、全学目標)が存在しており、さらにその根底には教育・学習観が存在している。これらは各層の各実践を支えるスポークとして機能している
  4. 個人、学部・学科、全学の外側には、社会が設定された
  5. FD担当者をモデルの外に置くのではなく、中に位置づけた
  6. FD担当者の役割は各層をつなぐことである

◎FDの実践的課題解決のための5つのポイント(「FD担当者の特徴に関する調査」2014より)

  1. つかむ(Understanding)
  2. 組織の現状を理解する
  3. つくる(Design)
  4. 全体像(big picture)を描く
  5. つなぐ(Tuning)
  6. 人・知識・情報を超域的につなぎ、調査わせる
  7. つみあげる(Accumulation)
  8. エビデンスを積み上げる 
  9. つたえる(Dissemination)
  10. 実践を発信し普及させる

以下、指定討論者のコメント。

(絹川正吉先生のコメント)

◎第1の論点:FDの三層枠組

・FDの取組は単独の層だけでは完結しないが、ダイナミクス(権限・責任)が課題である

◎第2の論点:〈学習する組織〉とFDer

・FDにおける「学習する組織」の構築という指摘がなされている。学習のパラダイム転換が為されるためにはダブル・ループ学習が必要であり、そのためにはある種の人為的介入が必要だろう。これが、俯瞰的視野を持ったFDer(ネットワークリーダー)なのか。

・ネットワークリーダーの特性は、職務や権限の境界を越えること。職制上の権限をもたない。非常にニュートラル、客観的に事柄へ介入することが必要である

◎以上の論点に対するコメント

・職制上の権限をもたないということは逆説的である。事実を述べているが、FDerの特性として機能するかどうかという検討が必要ではないか。「権限のない職制」に耐えられる人は聖人ではないのか?

・FDerは、大学教員の自律性と拮抗せぬか?中教審の本音は、「何もしないわけにはいかない」ということだ。その前提には、教員に対する不信感がある。大学教員が自律的に教育改革に関わらないという不信感だ。この本音は、拮抗することを一つの要素として挙げていることと同じである

高等教育研究者であればFDerの資質を有しているとはいえない。FDerになるためには、いずれかのディシプリンにおける研究・教育経験を持つことが望ましい(ディ・L・フィンク博士)にどうこたえるか

FDerは専門性を核とする教員の外側からモノを言っているのではないか?

◎第3の論点:学習観のパラダイム転換

ディシプリンをしっかりやることが、ディープラーニングの具体性だ。このことにFDerはどう関わるか。ディシプリンに踏み込まないFDerは意味があるのか。

・「FDの日常性」を問う。組織論と実質論が並走しているが、どうクロスするのか。鍵は日常性では?

・FDの「同僚モデル」を問う。大学教員の教育業績評価がないと、FDにインセンティブを持てないのではないか

(寺﨑昌男先生のコメント)

◎FDの組織化

・「義務」化。これで怠け者の大学教授たちが教育に携わることになるだろうということだ。義務という言葉は適切なのか?不正確だ。本当はなんなんだ。義務の主体は誰か?教員ではない。法人だ

・FDの主体は誰?FDの主体はFDerなのか?どうもこれはおかしい。FDの主体はそれを作っていく学校法人。その次に、働いている人たちがどういう人たちかという話になるはずだ

・「ミドルアップダウン型」に賛成する。トップダウン型のFDは成功しない

・義務制の中身の確認が必要だろう

・「ミドルアップダウン型」という形で主体をとらえよう

◎組織化、集団化、プログラム化

・プロセスで、落ちたものがあるのではないか?FDの組織性や計画性、カリキュラム感が重視されている。この中で消えたものがないか。ちょっとしたコツやカン、工夫はどこへいったのか?それらは、計画化されたプログラムの中ではなかなか伝えられないのではないか

◎学部・学科のカリキュラム改革に踏み込めないという問題

・同僚評価がきわめて重要だ。一方、FDerを頭におくと、勇を奮って他の専門分野に入り込んでいくことが必要ではないか。専門のことはわからない。でも頑張って踏み込まなければならないのだ

(田中毎実先生のコメント)

・この10年、悪戦苦闘してきた。問題もわかる、その問題に対してある種の対処もやってきたという10年だった

・問題は3つだ。まず、関わっている人たちの雇用の状況だ。有期雇用が大半なのに無限責任を背負い込まされている。次に、権限が与えられていないのに責任だけが負わされるということだ。最後に、教員の自律性とFDerの拮抗の問題である。根を持ってない人たちが、根を持っている人に働きかけるという問題、難しさがそこにはある

・それに対して無策だったかというとそうではない。蓄積をしっかりとした形で受け止めることが大事だ。何をどう頑張ってきたのか。雇用、学内の位置、ポジション。そろそろ個人的な努力を越えてきている。何ができるのかが非常に問われるようになってきた

(司会の新潟大学・加藤かおり先生により、3つの論点が示された

①学問ベースのFDであるから、専門性に踏み込むべきか?

②FDの主体はFDerか?

③FDerの雇用や組織の中での位置づけ

 

①学問ベースのFDであるから、専門性に踏み込むべきか?

・ディープラーニングではなくディープアプローチだと思っている。アプローチの対象は専門教育だが、方法のところを見ていきたい。専門教育を深めていくためのアプローチなり考え方を提供していく。矛盾はしていないと考えている。専門性へ踏み込むこともチャレンジはしているが、玉砕してしまう。まだ答えはない(山田先生)

・最初はシラバスの書き方など、汎用的な内容から入るしかなかった。これをディシプリンベースのものに転換していかなければならないと感じた。Pedagogical content knowledge (PCK) ペダゴジカル・コンテンツ・ナレッジという考え方がある。数学をベースとしたFDerや、哲学をベースとしたFDerがいる。こういう仲間が既にいるが、増やしていきたい(佐藤先生)

②FDの主体はFDerか?

・もちろん大学である(山田先生)

・FDerだけが主体だけというつもりはない。アクターとしてはマルチにならざるをえない。そうでないとうまくいかない。誰がどのような役割をしてどう動けばいいのかというところで混乱がある(佐藤先生)

③FDerの雇用や組織の中での位置づけ

・権限は誰が付与するのか?学長直下にあれば付与されるかというとそうでもない。権限は組織の中で社会的に構成されるので、そこまで単純ではなく難しい。回答は難しい。また、前提として教員は自律的な存在だと思っている。ワークショップを開いた時に何を選ぶかは教員に任されると理解している(山田先生)

・FDやIRは大学の根幹だが任期付である。また、ニーズは多いが、ディシプリンベースの中でディシプリンベースでない者を雇用する。あるいは教員と職員の間の第三の雇用、我々のような人間の位置付けをまだ大学ができない(佐藤先生)

→(絹川先生)FDerは難しい立場の中でよく頑張っている。義務化の主体は法人か?義務を責任ととらえるとやはり教員か。単純に法人が義務化の主体とは言えないのではないか。義務の中に責任が入ってくるのでは

→(寺崎先生)義務教育の主体は誰か。子どもではない。親や保護者である。誰に対して義務の責任を持つか、究極的には国。当面は地方自治体。FDも責任はある。学生に対する責任だ。しかし、それは大学教師の職業倫理としてのものだ。学生の成長に責任を持つという責任。それはある

→(絹川先生)中教審は教員に責任を負わせたかったのでは?

→(寺崎先生)それは職業倫理の問題であり、法的な義務の問題ではない

・(田中先生)大学の状況はすごく変わってきている。京大でFDをやろうと思うと、研究の根を持っていない人がやっても苦しいだろう。武庫川に移って2年だが、授業を見ていると非常によく頑張っている。でも組織化されていない。個々で苦労している人が分担している。ローカリティーが大事だ。佐藤先生が愛媛大学でやったことをそのまま阪大にもっていってもむりだろう。一般的な議論が一般的に通用していくわけではない

→(佐藤先生)適用できることもできないこともある。今はまだ様子を見ている状況だ。相手が何に関心を持つのかに気をつけている。ローカルな場で生成するしかないとすれば、FDを一つの学問分野として捉えればよいという考え方がある。博論の執筆においても、「学術的でない」と言われてしまい、苦労している。ただ、FDerを目指す人もいるのだから、自分だけのためではないという指導を受けていて、そういう理解もしているつもりだ

→(山田先生)自分には、佐藤先生ほどの責任もアイデンティティーもない。リサーチャーだと思っている。FDerを守る責任は佐藤先生にはあるかもしれないが、自分にはその立場はない

・(佐藤先生)大学教育学会で、ここで実践・研究をしてきた。その学術性を引き継ぎたいと思っているが、いかがか?

→(絹川先生)一般教育学会の先覚者にはFDを研究するという発想はあった。一方、学術的に研究すると自己目的になってしまうところもある

→(寺崎先生)学術研究でいいと思っている。他のディシプリンに踏み込むということについて、勇気の問題以外も考えている。例を挙げるなら、日本の大学史研究と欧米の大学史研究の違いは、ディシプリンを超えるかどうかというところにある。我々は通史編しか書けない。理学部編とか法学部編は作れない。全て部局史であり、口は出せないし、出したところで聞いてもらえない。欧米は違う。平気で書く。ここが日本の学会の問題だ

・(田中先生)FDerの役割として、文科省の意向や海外の理論を現場に渡していくのはだめ。媒介者にはならないでほしい。アカデミックな主体になろうとしたら、そこでドクターを作るとかそういうことが必要だ

→(絹川先生)自己反省するが、ディシプリンにFDerは踏み込めるのか。専門家は辺境しか見えないという側面もある。一部しか見えない専門家に対して、FDerはどうアプローチしていくのか

(フロアからの質問)

・FDerは、同僚教員の中で役割をあてられた人なのか、専門職なのか?(首都大学大森先生)

→専門職の機能とは何なのか?をはっきりさせる必要があるだろう(絹川先生)

→はっきりしないのがいいのではないか?(田中先生)