松宮慎治の憂鬱

'04京都橘高校卒→'08大阪教育大学卒、私立大学に職員として奉職→'17広島大学大学院教育学研究科博士課程前期高等教育開発専攻修了,そのまま後期課程在学中。とあるきっかけ(http://shinnji28.hatenablog.com/entry/2015/01/10/050000)があって、実名でブログを始めることにしました。特に憂鬱なことはないのですが、大学職員仲間がタイトルを考えてくれたので、そのまま使います。

「大学教育学会 2014年度課題研究集会 1日目」の報告

標記の会に参加してきました。

大学教育学会 2014 年度課題研究集会 | 大学教育学

 

課題研究集会には、大会と違って自由研究発表はありません。この学会で進んでいる課題研究の報告を行う、というのが趣旨です。2日間参加した記録、その内容を以下に記します。1日目は基調講演と開催校が企画したシンポジウムでした。2日目の分は、明日書きます。掲載にあたり許可は得ておりませんので、掲載そのものについての問題や、内容の修正の必要等あればご用命ください。

日 時:2014年11月29日(土)13:45~17:30(1日目)

会 場:神奈川工科大学

テーマ:日本社会における大学教育の意義

内 容:

【基調講演】「グローバル化する日本社会における大学教育の意義―通過儀礼からキャリア・ビジョンの転轍機へ―」(東京大学 吉見俊哉先生)

・大学の再定義をする必要があるだろう

・大学は二度生まれている、大学とは「メディア」である、大学とは「自由」である

国民国家を前提にした大学があり続けるとは思わない

・近代前半に起こった大学の死がもう一度起こるかもしれない

◎大学一度目の誕生

・言うまでもないことだが、大学の起源はボローニャ大学(1158年)やパリ大学(1231年)である。この時代は、中核都市の交易ネットワークが重要な役割を果たしていた。また、ユニヴァーシティ=協同組合であった。教師も学生も旅人として存在していたので、弱かったのである。この弱さを相互補完するために、ローマ教皇ほかの勅許をもらって自分たちの権利を守ろうとしていた

◎大学の一度目の死(14~16世紀)

・大学が形骸化してきて一度死に向かった時代だ。キリスト教的世界の中での大学としての普遍性が失われ、国ごとに分かれていった

・16世紀以降、知の生産の形が変わったことも指摘しておかなければならない。知を得るのに、何か月もの旅は不要になった。かなりの程度まで、旅をしなくても、活版印刷技術によって、書物で知識を得るということが一般化していった。この印刷革命のインパクトは大きい。それまでは、知は秘伝であった。きちんとトレーニングを受けた人だけに伝える、その方がちゃんと伝わっていくというのが出版革命より前の時代の継承の仕方である。その方が知は伝わったのだ。しかし、知は秘伝の時代から公開の時代へ移る。知がどんどんオープン化していく。これが印刷革命であり、中世的な知の伝承の仕組みは終わっていった

◎大学の二度目の誕生

・19世紀のドイツにおいて、二度目の誕生を経ることになった。これがいわゆるフンボルト理念であり、具体的には文系のゼミや理系の実験室の起こりをさす。教育と研究の一致したありようが形づくられた。これが大学にある種のブレイクスルーをもたらした

◎「大学院」の発明

・「大学院」が発明されたのはアメリカである。ヨーロッパの同一型のユニバーシティを超えるために、米国でカレッジの上にグラドュエート・スクールを作った。これが大学院である。以来、アメリカ型大学の隆盛が続いている

◎では日本の大学は?

・日本の大学は、帝大型と私学型に分類することができる。東大型と慶応型と言ってもいい。2分類である

・日本の大学は元々それぞれ専門学校であった。しかし、その成り立ちは全く違う

・東大は、学部によってそれぞれ先祖が違う。慶応の場合は、最後は「福沢先生」で統一できる。東大にはそういう人がいない。東大の学部は全部遺伝子が違う。学部統一ということが非常に難しい。例えば、文学部と理学部は幕府天文方(1684):独英モデルであり、医学部は幕府種痘所(1858):独モデルであり、工学部は工学部工学寮(1871):スコットランドグラスゴー)モデルである。全部違う。大学の成立より学部の成立の方が古い。これを「帝国」という概念のもとに一つにまとめたのが森有礼である

・一方私学であるが、基本的にその役割は、西洋の知識の翻訳であった

福沢諭吉の私学論(『学問のすゝめ』)には、官学批判という要素がある。学問というものは私の側にあり、官の側では育たないという理論であり、加藤弘之等への批判を含んでいる。

・福沢による批判への反応は、次のようなものであった。加藤弘之:国権>民権、森有礼:国家=国民、津田真道:政府→人民。この中で一番面白いのは森有礼で、国家=国民である、つまり学問に官とか私とかそういう区別は元々ないのだということを言った。帝国大学の成立には森有礼が重要な役割を果たすことになり、私学は慶応の福沢をモデルにすることになった

東京大学の歴史

・東大教養学部の誕生は大きい。旧制一高を潰して教養学部にした。南原東大総長がやろうとしたことは、リベラルアーツであった。それを帝国大学の中に入れたかったのである。これには、彼の中のキリスト教の概念が影響しているだろう。東大に教養学部を作る。たとえGHQと手を結んででも、という強い信念があった

・その後、90年代の大綱化の時に、教養部を解体した。今それを戻している。例えば九大の基幹教育院のように

・南原さんが総長のときにやった一番大きな仕事は、しっかりした形で教養学部を作ったことである。帝国大学の在り方を根本から変えるために。また、南原繁の面白さは、大学都市構想にも見て取れる。彼は、「東京にオックスフォードのような大学都市を作りたい」と思っていた。戦後の焼け野原の東京だったので、一から作れると思っていたのだ

◎大学紛争(1968-69)

・戦後の大学の問題点が一挙に噴出したのが大学紛争の時代である。しかし、例をあげると、東大と日大ではその内実が大きく違った。東大は自己否定、日大は自己肯定であり、大きく違った

・大学紛争は権威に対する戦いであった。権威を象徴するのが総長や国家である。その権威を倒すチャレンジをした。そう考えたとき、東京大学の場合は、ねじれた構造を持たざるを得ない。つまり、東大生が権威への戦いを始めることになるのだが、自分たち自身が学問的社会的権威を既に帯びてしまっていた。自己否定のベクトルを持たざるを得ない。出口がない

・「通過儀礼としての大学と大学紛争」ということが言える。入試と就活のある間の壁の中に存在していたという基本構造は、その前もその後も変わっていない

◎爆発する大学とグローバル競争

・大学制度改革には、大きなものとして、大綱化(教養教育の崩壊?)、大学院重点化(大学院生の凡人化?)、国立大学法人化(国立大学の企業化?)の3点がある

・環境変化として、18歳人口の減少が挙げられ、大学数が増加して質が低下し、志願者マーケティングのようなことが行われるようになった

・現在は、グローバルな大学間競争が行われている。大学数が増えているのは実は日本だけではない。日本型大学体制の限界というのは、アメリカ一辺倒の陥穽を同時に示している

◎再び、大学を襲う改革の嵐

・求められている改革は、全部もっともだ。でも大学は疲弊している。研究者、管理者、教育者、1人3役はこなせない。しかし、先生は能力あるからできるしょ?ということになる

・こういう状況が続くとどうなるか。やっぱり大学を改革しなくっちゃと頑張る人(そして倒れてしまう人)と、そっとしておいてほしいという人に二極化されていく

・学生はどうなるか?多面性の時代を生きる困難にいる。海外、インターン、サークル、資格、就職、大学院、ネット…

・誰が大学を救えるのか?大学が直面する三重苦がある。①大学の量的拡大と少子化グローバル化の加速度的進行③知識の複雑化とボーダレス化

・変革の主体は誰なのだろうか。国の大学政策か?→後退する国民国家という問題がある。産業界+世論か?→研究教育への無理解という問題がある。大学自身か?→教授会とのたえざる折衝という問題がある。結局のところ、ビジョンの共有が必要

◎大学の再定義

1.宮本武蔵(二刀流の教え)

 複雑化した知識社会の多元的な普遍性が必要だ。具体的には、各分野における専門教育×諸分野の横断・融合によって、横断的な専門人を育成したい。科目を閉じるのではなく、開く。開いた形で体系化する

 東大では、自然言語処理の技術を使いながら、科目と科目の関係を可視化・構造化した。また、成績評価の適正化を図り、これを全学統一した

 日本の大学の国際化の遅れは甚だしい。学生は海外に行きたがってないかというと、そんなことはない。東大の学生満足度は一般に高いが、国際経験に関しては満足していないという事実を直視せねばならない

2.甲殻類から脊椎動物への進化

 背骨の通ったボーダレスな学びが必要だ。ムラ社会からの脱却とも言える。これからは壁が潰れていく。壁で大学を守るのはやめよう

3.人生の通過儀礼からキャリア/ビジョンの転轍機への転換

 学年制キャリアから単位制キャリアへ変えていこう。人生で3回大学を出るのが当然の社会にしよう。いっぱい壁があって、壁を越えた先が見えていないというのが今の状態だ

 どちらにしろ18歳人口は減っていく。学園紛争のときから、入試と就活の間に大学あるという問題構造は変わっていない。「中間機関」としか定義できない。そうでない形を作るためには、壁が壊れていく中で、色んな人生段階で入れるようにしなければならない。18歳、30台前半(転換期、違う人生を歩んでいく可能性を考える)、60代(今は70代まで元気だ。余生を送るか、全然違う新しいことにチャレンジする)。この3回、入りなおす。入りなおす先として価値があるものへしていこう。ビジョンやキャリアが変わっていくという場所になる必要がある。通過儀礼ではだめだ

 具体的にはどうしたらよいのか?それはやはり原理に戻ることだ。リベラルな知と有用な知のダイナミズムに回帰しよう。19世紀において有用な知は、医学法学工学等、リベラルな知は哲学数学美学等だった。21世紀において有用な知は、環境、情報、リスク等の課題発見の知だ。これに対して、新しいグローバルな教養知とは何か?これを考えよう。近代国民国家を前提とした教養知とは違う教養知が求められている。デジタル知識基盤?ダイバーシティ?環境条件としての地球?いったいどれだろう

 

【開催校企画シンポジウム】

テーマ:「現代日本の『学び』と『教養』教育」

① 「現場の『学び』と大学教育 3つの事例からの考察」(東北大学 渡部真一先生)

◎自身の専門分野

・「学び」のメカニズムを研究してきた。人間の学びのメカニズムがどうなっているのかを、認知科学の視点から探求してきた。これは教育心理学の枠組みである。「学び」の研究成果を大学教育に応用したいと思っている

◎知を「私の知」にするために

・学習者それぞれの「私の」知識(知)は、近代教育で対象としてきた「知」+αによって求められる。このαは何だろうか?知というのは本質的に個人的なものだ。+αがないと「私の知」にはならない。著書の中では、この+αに日本文化の伝統的な知を挙げた

・ここでは、3つの事例から「学び」を検討したい

事例1:脳損傷者(失語症

病棟では「体温計」と口に出して言うことができる。でも、検査場面や訓練場面では言えない。「リンゴ」等の簡単な言葉もそうだった。病棟では言えるけど検査になると言えない。このことから、検査・訓練場面の言語能力と、日常生活場面の言語能力が異なっているのではないかと考えた。近代医療・近代教育でも同じだ。どうしても検査・訓練場面の言語能力(教室)の方に焦点が当たってしまうが、大切なのは日常生活場面ではないか。そうした考えから、日常生活の方に問題意識が傾いていった

事例2:自閉症児の教育

療育・訓練で能力をのばす。常識的・教科書的にはこの方法をとる。しかし、日常生活場面の中で能力を伸ばせないか?と考えた。たとえば、母子関係・コミュニティでのコミュニケーションにおいて能力を伸ばすことを検討した

事例3:大学教育のオンライン授業

MOOC(大規模公開オンライン講座)が大流行していて、大学教育が大きく変わるといったことが指摘される。東北大学に戻った大きな使命の一つとして、インターネットスクールをサポートするという使命があった。2002年からeラーニングを推進する立場にある。eラーニングを推奨すると、ほとんどの先生はこう言う。「やっぱりリアルの授業じゃないと伝わらないんだよねえ」:一流の学者でもこう言う。なんで?と切実に悩んだ

・大学教育の役割をあらためて考えたい。3事例の積み重ねでこう考えるようになった。知識や学びは学習者によって違う、本質的に個人的なものだ。それに対して、「オンライン授業」の知識は、グローバルで普遍的、近代教育で対象としてきた知だ。これが私の知(血)となり肉となるためには、なにか+αがないと、自分自信の知にならない。ではこの+αとは何か?例えば、OECDPISAリテラシー。その基礎となっているコンピテンシー。新しい能力。ポスト近代型能力。等と言われる

 私は「状況的学習論」に立場を置いている。人間が学ぶときには、どういう状況や文脈で学んだかが必ずくっついてくる。例:ドナルド・ショーン(1983)「行為の中での振り返り」

 よって、+αというのも、どのような場、状況、文脈でどのように学んでいるかによって変わってくる。今私の頭の中にあるのは、時代性(高度経済成長期が終焉を迎えて・・。価値や幸福感の多様化)と日本文化(日本の伝統的な「学び」や「知」)である

◎今持っている課題

近代教育で対象としてきた知に、日本文化の伝統的な「学び」をどうやってブレンドしていくかということ(私の知、私の学び)⇒例:伝統芸能デジタル化プロジェクトまた、MOOCの大流行により、逆に日本の「大学教育」現場の役割・重要性が浮き上がってくると考えている

 

② 「グローバル化のなかの『大学』と『学生』―ポストモダニズム以後の『日本』と『古典』―」(慶應義塾大学 藤本夕衣先生)

◎問題意識

・古典を失った大学ということで、大学改革に規範的なスタンスを立っている。古典の現代的な意義を問うことをやってきた

・「グローバル化」にあわせた改革を重視している大学はどれくらいあるのか?「ひらく 日本の大学」(2012年度調査結果)によると、秋入学への全面移行は8割近くが重要でないと言っている。8/613。回答している校数が613であり、国際化にまつわる改革に関する質問、全てに重要ではないと答えたのが8校だ。うち6校は地方医療系。残りの2校は、国際教養大学と埼玉学園大学。多くの大学がグローバル化の推進にあわせる必要があるのか?

・ユニバーサル化とグローバル化の間にある距離がある。グローバル化は国策だ。ユニバーサル化した大学の現状では留学というよりも、地元へ回帰している。これもユニバーサル化した大学のニーズでもある。ユニバーサル化とグローバル化とのすみわけはどのように行うのか?一部のエリート大学だけがグローバル人材を育てる問題ということに問題はないのだろうか

◎学生の生活世界としての「日本」と「古典」

・以上を踏まえて、学生の生活世界としての「日本」と「古典」について話したい

・先日の有識者会議で提示されて話題の、G型大学とL型大学について。学問よりも実践力をということで、文学部の例でいえば、シェイクスピアや文学理論ではなく、観光業で必要となる英語、地元の歴史・文化の各所説明力が必要だという指摘が為されていた。これに対して、大学の職業訓練校化だ!人文学の否定だ!教養の否定だ!という反論が多い。これは本当にそうなのか?

・観光業で必要となる英語を本気で考えるとどうなるのだろう。神奈川工科大学の近くには日吉神社があり、大山街道が近い。そこには句碑があり「旅人と我名呼ばれん初時雨」と書かれている。さて、これが俳句であることは、教育を受けた人間ならわかるだろう。これが、松尾芭蕉の句であること、また松尾芭蕉が『奥の細道』の作者であることもわかるだろう。さらに突き詰めていくと、この句碑に書かれたものは『笈の小文』から抜き出されていることがわかる。この句をもう少し見て行くと、俳諧の歴史や、その中で位置づけられた「旅」の意味合い、季語の理解等が必要になってくる。ではこの句を英語で説明しようとするとどうか?時雨はdrizzling rain?The first winter shower?

このように日吉神社の句碑を説明しようとすると、どれほどの学問知が必要か、が分かると思う。このように、生活世界に根差した学問の知が必要ではないか。この句を外国人に説明するためには、生活世界において育まれる感性も重要になる。初時雨は、梅雨の雨とも違う。夏のざっと降る雨とも違う。どう違うのだろうか。古典というのは、生活の傍らにある芭蕉の句碑から生まれるものなのだ

・一体何が問題なのか?シェイクスピアが否定されることが問題なのではない。シェイクスピアを捨てることによって、学問全体を捨て去った気分になることが問題なのだ。生活世界と結びついた説明が非学問的であり、理論が学問だと考えてきた。この枠組を問い直す必要がある

グローバル化のなかの大学と学生のイメージを持っている。それは木だ。土の中に、古典―生活世界に根差した学問の知、生活世界において育まれる感性―が存在しているのではないか

 

③ 「現代日本に必要な『教養』教育の要素」(立教大学 佐々木一也先生)

◎全体について

・教養の概念の意味が変わり、旧来の教養は失墜した。学生の求めるものと大学が提供する教養が乖離している。グローバル化を生きる地道な「教養」とはどのようなものなのだろうか?それは有効な専門性を見抜き、自分を柔軟に変化させることではないか。では、それを育てるカリキュラムはどのようなものなのか?

◎教養教育の迷走

・大綱化の結果の教養の解体と再編がある。また、ユニバーサル化や社会からの養成、人材育成等と相俟って、旧来の教養は失墜した。漢文的素養と西洋文化の融合といった旧来の教養は、信頼を失ったのである。今は、人格陶冶主義と普遍的合理主義に向かっている

◎教養の無力

・東西の万巻の書を読み破り、普遍的な仁愛の精神性を育成することは、人を幸せにしないのではないだろうか。むしろ競争には不向きなのでは?

◎学生の教養とは?

・欲望全開、競争力極大に必ずしもなじまない学生もいる。旧来の人生モデルが失われ、自分でモデル作りから始めなければならない。よって、新しい教養が待望されている

◎待望される新しい教養

・学生は、自分たちでいくつかのことに気づいている。以下の7つだ。1.仮借ない自由競争に晒されている、2.競争に勝つことに意義が見えない、3.勝ち続けられるとも思えない、4.目立ちたくない、5.生活水準は維持したいが、そのための努力はしない、6.他人との緩い結びつきが心地よい、7.他人に縛られない自分らしい人生を送りたい

・社会的感覚と世間的感覚が相克している。学生たちも、自分たちの感覚では「強欲」な社会を生き延びられず、右往左往するということがわかっている。学生たちの中にも適度なバランス感覚が残っている。こうしたものは、リバタニアニズム的状況内における時代遅れの「世間的感覚」なのだろうか?この社会から脱落気味な秩序感覚こそ、学生のリアリティなのでは?

◎「地域限定秩序原理」の正当性

ハイデガーの弟子のH.G.ガダマーは、精神文化の歴史的被拘束性を重視していた。文化の枠を超えて相互に理解をしようとすると、ある種の伝統の共有や、伝統を一緒に作ることが必要という考え方である

グローバル化の意味

・西洋化でも文化的統一でもない。文化圏の自己主張と活発な相互交流がなされている。ところが、伝統を共有しないと相互理解は難しいのではないか。一方、欲望には越境する力がある。しかも、足るを知らない。最終決着は多分ないが、あるとしたら唯一勝者の絶対的支配である。

・前述の学生の感覚は、それがいやだなということの表れではないか。それを避けるためには、文化圏独自の理知性の自覚(欲望に負けないこと)が必要であり、そのことによって相互尊重と相互理解が可能になる

◎「新しい教養」の要素

・新しい教養の要素には、次のようなものが考えられる。「巨大化した文明理解と操作に求められる専門性とニッチ性」「専門とニッチの将来性を見抜く力」「専門とニッチの間を的確に移動する力」「多様性の中でのバランス感覚」「部分の全体に対する関係を構築する力」…

◎教養は教えられるか?

・「教養は教えられない。教養は知識だけだ」という話がある。例:知識として持っているだけでは意味のない「哲学」というもの。「哲学するphilosophieren」の意味を考えよう。

・「教養ある」を教えることこれが、大学教員がやらなければいけないこと

・旧来の「教養ある」あるいは「専門性ある」大学教員。それは現代の学生のモデルにはなりえない。よって、教養あるいは専門性を学生の必要・実態にあわせて融合する必要がある。教養教育はそういうチームティーチングである

◎「教養」教育への道

・教員も「新しい教養」に対応する努力や、異文化コミュニケーション能力を有する必要

・成果外を担当する教職員、特に職員の重要性を指摘したい

・学生たちの出発点と環境と将来見込みを勘案し、専門を含む大学全体で「教養」教育カリキュラムを運営する必要があるだろう

 

  • パネルディスカッション

吉見俊哉先生のコメント】

(藤本先生へ)シェイクスピアを捨てることが、すなわち学問を捨てることという感覚が問題だという感覚。全く同感である

(渡部先生へ)ローカルナレッジ。無形の身体的知というようなことをおっしゃった

(佐々木先生へ)新しい教養と古い教養は違うということを指摘された

これから、新しい教養をここで話さねばならない。その上で以下の論点を示す。

➢場所・ローカル・身体。知が生まれる場所に鍵がある。そういうところで新しい教養を考えることが重要ではないか

➢場所まで戻るのもいい。一方、写真とか英語。テキスト以外の部分。デジタル技術のテキストを生かしてもよいのではないか

【パネルディスカッション】

(吉見先生)

・(司会の師玉先生の振りを受けて)カルチュラル・スタディーズ(文化研究)は国民文化論的な捉え方とは違う。前者は矛盾やコンフクリクトのような複数的な場としてとらえる。日本文化、ドイツ文化、という場があるという考え方はしない。ジェンダーや階級等、複数のもののぶつかり合い。文化というものの自明性を疑うというスタンスをもっている。これは教養というものの自明性を疑うというスタンスにつながる。これは文化や教養というものがいらないと言っているのではない。自明性を疑うことによって可能性を見出すことを目指している

(藤本先生)

・ヒール役のつもりで来たが吉見先生にはあたたかく受け止めてもらってしまった。でも、あえてさらに攻撃したい。新しい教養の在り方=近代メディアの可能性を提示された。私が芭蕉をもってきたのは、言語の重要性を考えたかったからだ。視覚を使ったとしても思考するのは言語であり、特に母語は重要である。そういう立場から芭蕉をエピソードとして持ってきた。たとえビジュアルメディアの可能性があったとしても、それを読み解く母語の重要性が増すはずだ。言葉としての日本語と学問との結びつき、そこでの思考や感性の結びつきというものを見直す必要があるのではないか

(吉見先生)

そのご指摘には、半分賛成で半分反対だ。言語には還元されない次元も映像にはある。記録映画、岩波映画というドキュメンタリー映画の保存をしながら思ったことだ。『佐久間ダム』という名作がある。その監督とカメラマン2人を招いて議論したが、議論がかみ合わない。同じ映画を作っているのに、ぶつかり合いを始める。そのとき思ったのは、カメラは言語とは違うロジックを持っているということだ。どの場所でどのアングルでどういう被写体を撮るか。説明は言語でするが、行為そのものは非常に空間的である。空間的なもの、そのすべてを言語に還元することはできない。空間的なものも残る。現代でいえば街中のいたるところにカメラがあり、iPhoneで撮影してネットにアップする。言葉にもあふれているけど映像にあふれている。MOOCも半分映像だ。膨大な映像に囲まれている現代社会だ。映像が撮られること、ビジュアルに想像するということはどういうことか。そういうことに自覚的になることが21世紀の教養の重要な部分だと思う

(司会:学びなのだが、学びとは違う。言葉や数値では表せない部分があると思われる。教養は目に見える形なのだろうか?)

(渡部先生)

・すごく気になるのは、生活世界に根差したとか、今のような議論をすると、結構安直に「アクティブラーニングで実現しよう」というようなことになってしまう傾向があることだ。ただ現場に行けばいい、というような話になる、これが気になる。アクディブラーニングで何が大切なのだろうか。「伝統芸能デジタル化」プロジェクト(2002-2007)を例に挙げたい。八戸の神楽というものがあり、子どもに300年伝わっている。教える、学ぶという関係がそこにある。いったい、この300年というのは何なのか?モーションキャプチャでアプローチを行った。動きのデータを人形に貼りつけたのである。これが近代教育なんだと思った。そうして、継承のためのデジタル教材を作った

・(動画を投影)舞の形(動き)をデジタル教材にした。ただし人だけを。しかし、現場の師匠に、これでは「場」が伝わらないと言われてしまった。この<師匠>では子どもたちはあこがれを持てないよねと。師匠を尊敬する気持ちを抱けない。結局「あの先生面白そう」「信頼できそう」そういうところかなあと感じた

・こうしたことを受けて、教育の場を併せてデジタルで作ってみた。場の方は好評だった。人だけではなく、場を伴わせれば、デジタルでもいけるという感覚をもった

近代教育では、段階を踏んで透明に評価する。科目Aを修得したら科目Bへ、Ⅰを終えたらⅡへ、というように。でも、日本の伝統芸能の特徴は、「学習プロセスの『非段階性』と学習評価の『非透明性』」(生田,1987)にある。日本の伝統芸能では、初心者も熟達者も同じ教材を使う。次の段階への進み方も非透明だ。夏から秋になる。秋になると、そろそろ秋になるので秋の踊りをしますか、ということになる。このような事象を、以下のようにとらえている。

近代教育     vs 日本の伝統芸能の知

きちんとした知     vs よいかげんな知

きちんと教える教育 vs 染み込み型の学び

きちんとした評価   vs やわらかな評価

グローバル化の時代にこそ、この右側の日本の知が必要ではないか。Aの国の真実とBの国の真実がある。どちらが真実か。これを決めようとすると大変なことになる。これは英国の知、これは米国の知、というように、誰かから教えられるのではなく、寮のようなところで染み込ませる、そしてはっきりした評価もできない。これが日本の知であり、今だからこそ見直す必要があるのではないかと思っている

(佐々木先生)

・教養が身に着いたかどうかは段階で示せないし、これまでも示せなかっただろう。ハムレットのどこをどう読み込んだら分かったことになるか。これは微妙だ。H.G.ガダマーの概念のひとつに、「権威」というものがある。シェイクスピアの読みに関して、味わい続けている人には「そういうのもあるなあ」と分かったりすることもあるだろう。初心者には到達できない深さがベテランにはある。もう少し考えると、先生が素晴らしい、さすがと思えるためには、学生の勉強がある程度進んでいないとだめ。初めてハムレットを押し付けられた学生が、「シェイクスピア50年」という人のよさはわからない。判断ができるということは、その人の蓄積の程度にもよる。どのくらいその言語や文化圏に関する蓄積を持っているか。自分で読んだ、批評家の文章を読んだ、知っているのと知っていないのとでは違う。一つの伝統の中に深く掉さしているということが必須条件だろう。深い文化圏になじんで初めて程度もわかってくる。初心者は何をやらされているのかわからない。渡部先生のいうように同じ教材を使っていても、初心者とベテランではレベルがちがう。統一的な神様のような視点からレベルを特定することはできない。でもその世界にいる人は互いに評価しあえる。自分が評価できないような高みにいる人もいる

(藤本先生)

・こぼれ落ちる側面があることは分かる。そこを語る言語が課題だと考えてきた。よい加減や染み込み型という言葉でとらえていくことの可能性を感じた。今の評価をする基準は、有用性・短期・可視化がメインになっている。わかったことや到達したことを評価する視点だ。わかったことよりむしろわからないことへの気づき、どこがわからないかということを見ることを評価する枠組みが必要ではないか

(吉見先生)

・(藤本先生のL型理論は東大の教員が許容するか?という司会の問いに対して)答えはない。多様だから。どっちの教員も常にいる。これは東大に限らない。とても難しい質問だ。私はどう考えますか?ということなら答えられる。ランキングのことについていえば、ランキングは結果に過ぎないので、目標にするのはばかげている。しかしながら、ランキングは全く意味がないと言い切れないところに問題もある。そこの数値に現れている現状や構造にはやはり問題はあるのである。変えていかなければならないところはやはりある。それは目的ではないが、結果的に指標に表れてくるもので、変えなければいけないところだ

・今、青森県中央高校がすごくブレイクしている。高校の演劇部はすごい。顧問が命をかけている。大学時代演劇をしていたので、自分の思考の全ては演劇から始まっている。青森県中央高校は今全国ツアーをしている。今は池袋の巣鴨演劇社でやっている。なぜ演劇の話をしたか。リアルなパフォーマンスの技術はあがってきているし、お客さんも増えている、5000円~8000円するのに、若い学生が見に来ている。シェイクスピアがなぜ偉大か。演劇のリアルの場、現場における身体的な演劇、音楽、リアルな場。これがあったからだ。場が力を持ってきている。リアルな場で生まれた知をどう大学の学びと結び付けて考えていくのか。これが教養教育の未来を暗示していると直観的に思っている

 

【質問】

・大学で修得した教養は評価しないとダメだろうか(沖縄国際大学の先生)

→全てを評価しなければならないとは思わない。ランキングのだめなところは、数値の改善を目指してしまうところ(佐々木先生)

→看護師さんを養成する先生と話していたときに、資格の部分については評価し、そうでない患者さんと接する時の態度なんかは曖昧でよいのではないかという示唆を得たことがある(渡部先生)

・教養教育の根幹は生活世界に根差していると感じたがどうか(教養教育に関心を持つ方。おそらく元教員?)

→一見いま言われているようなニーズとは違ったところを伝えることで、逆に生活世界に根差すことができると考えている(藤本先生)

・今日の話は大学知全体に通じるのでは?教養に限定する必要があるのか。G⇔Lの2分法的思考を踏まえて、複数のものが絡み合う重層的な思考もあると思うが、吉見先生の図は2文法に近いが、これについてはどうか?(京大松下佳代先生)

→確かに2分法のシンプルな図だということは理解している。ここで伝えたかったことは2つ。やはり有用性もいる。それから有用性以外のリベラルな知もある。この2つの知のダイナミズムで大学を考えること。2元論だが、軸として残っていくような気がしている。(吉見先生)

→2分法は反対だ。無用と有用の対比にはしないのか?有用⇔リベラルにすることによって、何かをごまかしているのではないか。今言われている有用というのが、短期的であるからリベラルの対局に置かれてしまう。このあたりのことを語る大学人の言説が必要だ(藤本先生)

→無用の用と言う言葉もある(佐々木)

→近代教育にプラスαが必要。じゃあそれはなにか?古典、シェイクスピアを生かすとして、じゃあ具体的にどういう風に生かすのか?具体的にどう生かすかというかがわからなかった(渡部先生)

→有用とリベラル。どの先生にも両方の面があるだろう(佐々木先生)

 (明日へ続く)