松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

「TEDx Youth@Kobe」に参加

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標記のイベントに参加してきたので、その報告をします。なぜ参加したかというと、スタッフをしている勤務先の学生に来てくださいと頼まれたからです。誘われるうちが華だと思って参加しました。

結論から言うと非常によかったです。いくつかヒントをもらいました。基本的に、このように「来てください」と言われれば行きますし、真っ当そうなものであれば、私の裁量の範囲で宣伝にも貢献しますので、学生のみなさまにはぜひ私というリソースを最大限活用いただきたいと思います。

TEDを現地で見たことはありませんし、久しくアプリも見ていなかったので新鮮でした。今日はそのTEDのYouth版ということですね。たまたまかもしれませんが、神戸大学の学生が非常に多いように感じました。

まあ、いつものことですが、もう少しいろんな人と話してもよかったですね。あんまり知らない人と話すの得意じゃないのでご容赦いただきたい。

 

以下報告です。スピーカー7名のお話をまとめました。掲載にあたって許可を得ているわけではありませんので、掲載そのものに関する問題、もしくは修正すべき点などございましたら、ご用命ください。

 

TEDx Youth@Kobe

日時:2014年11月16日(日)13:00~20:00

会場:カナディアンアカデミー

テーマ:Growing Tree

【内容】

1.浦田高幸氏(ダブルダッチパフォーマー)

 ダブルダッチを知っている人は結構いる。実際に見たことのある人となると、その半分くらい。よく、実際に見たことのない人から、「あなたは飛ぶ方なの?縄を回す方なの?」とよく聞かれる。映像を見てもらえばわかるとおり、ダブルダッチは飛ぶ人と縄を回す人が頻繁に入れ替わる。

 自分は、平日は一会社員としてサラリーマンをしていて、いわば二束のわらじをはいている。人は色んな場を持っていて、常に行き来している、家、仕事、恋人、学校、部活動など。でも、居心地がいい場と、そうでない場がある。大半の人は、気分の盛り上がる場に居続けたいと思っている。休日は気分が盛り上がる、平日は仕事中で気分が盛り下がる。当たり前だが一週間のうちほとんどが平日である。気分が下がる場にいることが多くなると、精神的にどんどんしんどくなる。かといって切り捨てることはできない。もし結婚していたら?気分が下がるからという理由で突然仕事に行くことはできない。

 ではどうすればいいのか?

 学生時代はダブルダッチのことしか頭になかった。ただ、目標だった世界大会に出場することができなかった。そのままふつうに就職したことが悔しいこと、ダブルダッチが好きだという思いがあって、働きながらでもプレイヤーでいることを選んだ。しかし、ダブルダッチの存在が大きすぎたことで、どんどん仕事がつらくなった。一度は会社に行けなくなった。しばらくして会社にはいけるようにはなったが、仕事とプライベートは別物としてとらえるようになった。

 そのうち転機がきた。夢だった世界大会に出場することになったのである。世界大会で優勝することができた。同時に、会社でも部署異動があった。まず、ダブルダッチの出来事を会社で話すようになった。すると、その人が周りの人に話すようになった。気分がいい。調子にのって、客先でもダブルダッチの話をするようになった。すると、「あの会社にはダブルダッチの世界チャンピオンがいる」ということになり、社内向けの広報にも取り上げられるようになった。だんだん会社にいることが楽しくなってきた。自分がやりたいと思える仕事がどんどん出てきた。今では仕事が楽しいと思える。 

 自分がテンションの下がる場だったものが、盛り上がる場に今はなっている。気分が盛り上がる場とは何か?逆に盛り下がる場とは何なのか?

 盛り上がる場にはなにがあるのか。自分のことが好きな人や、よき理解者がいる。やりたいことややりたいもの。それがたくさんあればあるほど、その場が気分のいい場所になる。逆に気分が下がる場はその逆である。

 気分が下がる場を気分が上がる場に変えるにはどうすればいいのか?そこにいるものやことを、自分にとって気分のいい人やものに変えていく必要がある。具体的には?そこにいる人たちに、自分がやりたいことや夢中になっていること、していることをどんどん発信すればいい。すると、そこにいる人たちは共感したり応援してくれたりする。だんだん、自分が知らないような「こうすればもっといいんじゃないの?」ということを与えてくれる。自分では気づかないことを。そうすることで、気分の上がる場に変えることができる。

 自分にとって気分の下がる場は、仕事の場だった。課題の多い授業、新しい職場。たとえ今、自分にとって気分の下がる場がなかったとしても、転職・就職・引っ越し・結婚、人生の転機が訪れるときに、気分が下がる場が訪れることがある。でも、そうなっても、どんどん自分を出してみたらよい。自分が熱中できることや得意なことがあるのに、それを出さないのはもったいない。閉じ込めるのではなく、自分を出してみることが大事。

 

2.古荘貴司氏(株式会社日本情報化農業研究所代表取締役

 この中で、おいしいごはんが嫌いな人はいるだろうか?おそらくいないと思う。おいしいごはんの材料は?まず、肥料は非常に大事。肥料は何からできているか?窒素肥料というものがあるが、かなりの割合で天然ガスから作られている。

 自動車は、最初は鉄鉱石で、工場で鉄の板になり、そして自動車になる。では農業は?畑で、たねや肥料を使って、目的のものを栽培する。農業における工場は畑であり、構造は同じだ。だから、農業者というのは技術者である。生産設備を使って目的のものを作るのだ。

 農業ってどんな産業だろう?担い手の高齢化、競争の激化、色んな問題のある産業だというイメージがあると思う。エンジニアだったら、問題の解決は技術でしたいと思うものだ。なお、今日の話で、農業に興味を持つ必要はない。競合が増えるといやなので(笑)。他の業界ではそうしているのか、という程度に聞いて欲しい。

 農薬や化学肥料の値段があがっている。とこで、無農薬・無化学肥料栽培は不可能だろうか?これは、どういう農業を営むかを考えるときに、魅力的なテーマである。しかし、非常に難しいと言われている。ただ、完全にゼロかというとそうではない。日本における農業の0.2%は無農薬で行われている。少し古いデータではあるが、ごくわずかであることは間違いない。でも、ゼロではない。

 京丹後市の青木さんという方が無農薬で素晴らしい野菜を作っていた。もし誰でもこれをやれるようになったら?生命科学の分野の者を会社に招き入れて、頼み込んで2年間調査させてもらった。調査がおわったのち、調査にあたったメンバーの大学院の同級生が、奈良で農業を始めたいと言い出した。名前はセレクトファーム。そちらに2年間での調査のデータを全て渡した。すると何ができたか。1年間でできた。初年度から、無農薬の野菜ができた。無農薬栽培が非常に難しいと言われているキャベツとか。

 無農薬だったら絶対虫がつくのか?そうではない。ほとんどつかない。実は、虫がついている野菜の方がおいしい野菜という話があるが、嘘である。ついてない方がおいしい。虫がおいしいと思うものはたいてい人間にはおいしくない。無農薬でもおいしくてきれいで虫がつかないものができる。虫をとる手間もかからないし、農薬まく手間もかからない。農薬まくのはすごく重労働なのである。

 まだまだクリアしていかないといけない問題はいくつかあるが、少なくとも2つの壁を越えた。一つは、無農薬・無化学肥料で野菜が作れることを示したこと。もう一つは、未経験でも正しい知識があればある程度のものが作れるということが分かったということ。これは、2つとも常識からは外れている。始めるときにもえらい先生やベテランから、「そんなの無理だからやめておけ」と言われた。常識を疑うのは難しい。でも、本当に難しいのは、どういう風に常識を疑うのか、ということだ。大変だったこともたくさんある。そういったときに役に立つのは、「科学的態度を貫き通す力」。えらい先生やベテランの方が話していることでも、突き詰めていくと根拠があいまいな部分があるときもある。そこがチャンスになる。その部分新しい根拠に置き換えれば新しい世界がひらける。少しでもおいしい野菜をお届けするために、これからも努力したい。

 

3.Mauro Iurato(ヴァイオリン奏者)

 今日は音楽、中でもクラシック音楽の中から生まれたアイディアについて話したい。

 音楽は、どのように楽しめばよいのだろうか?音楽の本質とは何だろうか?クラシック音楽は、非常に洗練されたものだと思われている。また時には、難しいとさえ思われている。私は音楽の文化としての力を信じているが、ときに音楽家と観衆との間に、距離が生まれることがある。

 音楽を楽しむためには、何が必要なのだろうか?もっとも大事なのは、ただ聞くこと。観衆が座って、ただ自然にそれを聞く、ただそこにいるだけという感覚が重要だ。それによって観客が心動かされるとうプロセスそのものが音楽だ。音楽を形づくるときに、楽譜を書くことがある。でも、音楽は、楽譜を書かれる前に、既にそこにあるものだ。それを、音楽家は観衆に伝える義務がある。この伝えるということが、何より大切なのだ。音楽は人々を勇気づけ、前向きにし、どんどん高めていく、小さな旅行のようなものだ。この伝えるということを、音楽家は正しく行わなければならない。

 もし、音楽家が、音楽を観衆に正しく伝えられないとどうなるか?その時点で、音楽の本質は受け継がれなくなってしまう。そこであゆみが止まってしまう。音楽を正しく伝えることは、音楽家の義務だ。創造的な音楽を観衆の耳に正しく届け、興奮させなければならない。コンサートがつまらなかったら、観衆に何も伝えられなかったら、それは音楽家としての義務を果たしていないことと同じだ。

 音楽を楽しむということに、特別なトレーニングは必要ない。子どもを見て欲しい。子どもは特別なトレーニングなど何も受けていないが、よい音楽を聴くと、きちんと感じ取ってくれる。伝わらなかったら、それはよい音楽ではないし、同時に音楽家が義務を果たしていないということだ。責任は全て音楽家にある。

 

4.松原永季(有限会社スタヂオ・カタリスト)

 街づくりの触媒的手法について話したい。過酸化水素水はその状態では安定していて変化が起こらない。ここに触媒としての二酸化マンガンを加えると反応がおこって酸素ができる。この二酸化マンガンの機能が触媒。触媒を英語で訳すと、カタリストになる。だから社名を、スタヂオ・カタリストにした。

 この触媒的役割が重要だと思った契機は、阪神淡路大震災にある。あのあと、街づくりという言葉がよく聞かれるようになった。元々は公園・道路・住宅等ハードを整備する役割を街づくりと呼んでいたが、今では自分たちで自分たちの活動をよくしていこうという活動を街づくりと呼ぶようになってきている。神戸は、この街づくりの方法論が日本でも最もはやく整えられてきた。こうした体制、住民主体のまちづくりは、復興に効果的に影響した。倒壊や火災で大変だった。加えて、一番最初から、行政の立場と住民の立場の間で非常に厳しい対立があった。行政は限られた予算でできるだけ早く復興させたいと考える。一方住民は、そういう行政に対して、自分たちの要望とか考えを何も聞いてもらえないまま計画だけが進んでいくと不満を抱く。実際に、震災のあとには多くの市民が市役所にかけつけて対決した。こういうとき、間に立って第三者的な役割をもって復興まちづくりをした方々がいる。60代から70代の方で、街づくりコンサルタントと呼ばれていた。わかりにくい行政の事業をわかりやすい言葉に変えて、住民の要望をきき、おおむねみんなが納得し理解できる提案としてまとめ、事業としての整合性をはかる役割を果たした。

 こうした先輩たちの活動を見て、この触媒の役割に関して、自分なりのやり方を探していこうと考えた。山奥の小さな村。老齢化が進んでいる老齢ニュータウン。まだ若いニュータウン。色々なところで仕事をした。その中できづいたのだが、触媒的役割が必要とされるのは、被災地だけではないということだ。あらゆるところで必要なのではないかと思った。相手の立場を尊重し、話をよく聞いて、力を引き出し新しい関係性を生み出す。そして、自発的に地域をよくしていくことを促す役割だ。

 以前、駒ヶ林で仕事をしていた。駒ヶ林は、震災の被害は受けたものの、火は出なかった。駒ヶ林というのは、道がせまくて古い建物が密集している場所だ。つまり、燃え広がりやすくて逃げにくい危険な地区であると言える。ここで、路地の整備等をしていた。40年前は人口9000人だったが、今は2700人になった。若い人がいなくなって、地方の過疎村のようになっている。街中にあるのに。こうした場所を持続可能な場所、活気ある場所にするのは難しい。新しい人が関わって新しい変化がおきないといけない。

 この駒ヶ林に、小磯良平パトロンの建物があった。お金かかったとてもいい建物である。でも、相続した方が岡本に引っ越して、20年くらい空き家になっていた。所有者の孫が、壊そうか残そうかという自治会長に相談をしていた。一方、芸法という若手アーティストの支援をしているNPO法人があり、支援に使える場所を探していた。この間をとりもって触媒となり、15年20年空き家だったところが、若手アーティストの拠点になった。すると、それまで駒ヶ林とは縁がなかったような人が来るようになった。ここでしてきた役割は、アーティストを支援する活動ではない。空き地の整備でもない。それぞれ思いを持った方々の話を丁寧に聞いて、新しい関係性を作り、さらに自発的に活動を行うことで地域をよくしていくこと。自分がしてきたのはそういうことで、建築と都市計画の分野でこういうことをやってきた。

 こうした触媒的な役割は、どこにでも必要なのではないだろうかと感じている。自分が関わることによって、自分が関わる人や組織が自発的によくなっていく、そういうことはどの分野でも必要ではないだろうか。自分が成長して自分がリーダーとなって、自分が社会をよくしていくことは、否定されるべきものではない。むしろ、望ましいありようの一つであると言える。しかし、自分が関わったことによって他者が自発的によくなっていく、これからはそれが重要になるのではないか。なぜなら、多くの方の立場がフラットになっていく時代だから。互いの意見を尊重しお互いよくなる、そしてそれを促すような役割だ。大学のサークル、研究室、会社の中の担当チーム、そういった中での働きをイメージすればわかりやすい。

 こういうことをする中で一番大切にしていることがある。それは、よい変化の可能性や兆し、これに気づくこと。あるいは、その兆しをきちんと見出して、その実現をはかる、そのための努力をすることだ。

 

5.菊川恵(兵庫県立大学学生)

 9か月前のニュースを覚えているだろうか。2014年2月25日のことだ。自分の3歳の息子に犬の首輪をつけた監禁していたとして、実の父親が逮捕された。テレビではこんな声がたくさんあった。「子どもを愛せないなら最初から生むな」「父親失格だ」。自分は心が痛くなった。傷ついている子どもがいるということはもちろんだが、過ちを犯した親に対しては、こんなにも厳しい社会の目が注がれるのだと思った。もしかしたら、自分も加害者になってしまうかもしれない。自分はこんな社会では生きていくことはできないと感じた。

 私の中学時代の話をしたい。「親は子供を愛するもの」「父母に感謝を」「命は大切」「今はわからなくても大人になったらわかる」。多くの大人はこういうことを言った。頭では理解できたが、心の底から理解することはできなかった。中学生のとき、帰宅すると床の至るところに物が散乱していた。カビだらけの風呂。山のようにたまる食器。おいしそうなごはんは親と兄弟のもの。私のごはんはいつもなかった。溜息をつきながら掃除をした。死んだ状態で生まれてきた兄がそのままゴミの中で放置されていた。しばらくして母が死んだ。死んだ母の遺骨も部屋に放置されていた。私の家では命は粗末なものであった。命は大切なものだ。一つだって無駄な命はない。頭ではわかっていたが、大人たちが言うその言葉は、口先だけに聞こえた。そして、心を閉ざすようになった。自分の感情を殺し、自分の話をしないようになった。自分がいま何を考えているかさえわからなくなった。そして、思いをおさえることができず、行動に出始めた。中学校を卒業し、年齢が大人に近づいていくにつれて、恋人との距離の取り方がわからない。本当は人と仲良くしたいのに、急に連絡をとるのをやめたり、大好きな猫を蹴飛ばしたりした。全部大好きなはずなのに、なぜ大切にできないのか?あるときはっとした。私は大人になるにつれ、だんだんと親に似た行動をとっている。親を反面教師にしようとしてきたのに、親と似た行動をとってきている。自分が将来親になったとき、もしかしたら子供を苦しめる親になるのではないか。

 二十歳になった。「子どものころつらい思いをした分、人にやさしくできる」と言われてきたが、優しい大人にはなれなかった。そのときこう思った。もしかしたら、大人も痛みや悲しみを抱えているのではないか。

 ある日「アダルトチルドレン」という概念に出会った。子どものころの家庭環境が大人になってからもよくない影響を与えることをさす。この概念を知ってほっとした。大人だって完璧ではないとわかったから。もしかしたら私の親も完璧ではなかったのかもしれない。私は自分の親に理想の親を押し付け、親を親としてしか見てこなかった。もしかしたら、親だって痛みや悲しみを抱えていたのかもしれない。私自身が親になったとき、子どもと傷つけてしまうのではないだろうか。子どものころは優しくされてきたし、同情されてきた。でももし私が子どもを傷つけてしまったら、立場は逆転してしまう。たとえ子どもを大事にしたいと思っていたとしても。「アダルトチルドレン」という概念を勉強するたび、親と違う方法を選べることもわかった。克服方法を探した。カウンセリングやワークショップがあった。でも、どれも高額だった。どうして家族という身近な問題なのに、身近で解決できないのか?そう思って、もっと気軽にシェアできる場所を作りたくて「はじめの一歩」という場所を作った。

 やっているうちにわかったのが、そういう場所に足を運ぶこと自体がハードルになっているということだ。自分のところに来られる人は、どこにでもいける人だと思った。専門的な場所は必要だが、ハードルがあがる。専門性はときに人とは違うというハードルになってしまう。必ず取りこぼされる人が出る。痛みを抱えている人が求めているのは、専門的な制度か?もちろんそれらは社会に必要である。しかし、本当に苦しんでいる当事者が求めているのは、ただ受け止めてもらうことやただ理解してもらうことなのだ。身近なところにそういうものがないので、専門的なものに頼るしかない。専門的なものにハードルを感じると途方にくれてしまうのは、身近な人に理解してくれる人がいないということが前提にあるからだ。

 この場を通じて、痛みを抱える大人がいるということ。子どもを傷つける大人がいたときに、少しだけ想像力を働かせ、批判することを少しだけ躊躇してほしい。知ることや想像力をもって相手と向き合う。あるいは、批判することを少しだけためらうこと。それだけでは、意味がないんじゃないかと言われるかもしれない。でも、私は意味があるとおもっている。ただそれだけのことで、当事者はあなたに理解してもらえると感じてもらうことができる。ここにいるあなたも誰かの居場所になれるかもしれない。知ろうとすることや想像力をもつこと。それが当たり前になれば、今よりもカウンセリングに行きやすくなるし、身近な人にも相談しやすくなる。居場所の選択肢の多い社会が、痛みを持つ大人や、悲しい思いをする子どもを少なくなることにつながる。自分には実家はないが、立ち寄ることのできる場所ができた。頼れる場所は作れる。ここにいるあなたも、私を生かしてくれたうちの1人である。だから、これからも誰かの居場所になってほしい。

 

6.岸田ひろ実(株式会社ミライロ)

 車いすの私を見てどのような印象を持つだろうか?「かわいそう」「大変そう」「何かしてあげないといけない」。そんな風に思っただろうか?

 私の車いす歴は7年である。歩いていた時の私もきっとそう思っていた。マイナスのイメージがあった。でも、自分は今までの人生で一番幸せ。歩いていた時より幸せ。毎日わくわくして生きている。どうしてそんな風に思えるようになったのかを話したい。

 まず、なぜ車いすの生活になったのか。7年前、大動脈解離という病気になった。緊急搬送された病院で、9割の確率で命を落とすと言われた。10時間のオペを経験して、一命をとりとめることができた。麻酔からさめた自分は全く足が動かなくなっていた。その日から、ふつうにできていたことができなくなった。絶望と向き合う日々。夫は10年前に病気で失ったので、長女とダウン症の長男がいる自分には、長女だけが頼りだった。長女は毎日励ましてくれた。でも響かなかった。なぜか?今までふつうにできていたことが全くできなくなった自分がいた。寝返り、ベッドから起き上がること、車いすにうつること、トイレ、お風呂、全部できない。毎日ベッドで泣いていた。でも、娘の前ではいつも笑っていてやりすごしていた。娘に弱いところを見せたくなかったから。大丈夫、大丈夫と笑って言っていた。

 しかし、ある日大きな転機がやってきた。なんとなく自分で動けるようになった頃、病院から外出許可が出た。娘が「三宮で買い物してごはんを食べよう」と言ってくれた。久しぶりに外出できることがとても嬉しかった。そんな思いを持って出かけた。でも、たったの1時間のうちに、その思いは崩れ落ちていた。いつもならここからそこに行くのに数十秒。でも、越えられない段差がある。いけない、どうやっていくのか。お手洗いも探さないといけない。「すいませんごめんなさい通らしてください」。そう言いながら移動していた。

 夕食の店に着いた。パスタを食べる店だったが、通路が非常に狭い。通してください、ごめんなさいと言いながら席についた。どうしようもない落ち込んだ気持ちになった。こんなに車いすでつらいことがあると。とうとう娘に言った。「なんでママは生きているのか?死んだ方がましだ。死にたい」言ってしまったあと、娘の顔を見ることができなかった。「あ、やってしまった」と思った。娘にショックを与えたのではないか、そう思いながら、娘の顔をそっとのぞいた。本当にしまったと思いながら。そうすると、娘はパスタをぱくぱく食べていた。「知ってる。きっとそう思ってると思っていた。死にたいなら死んでもいいよ。死んだ方が楽なくらい、ママが苦しんでること知ってる。でも自分にとっては何も変わらない。歩いていようがいまいが、ママはママだ」。

 これを聞いて非常に驚いた。「え?死んでもいい?」そういう選択肢を与えてもらった。ふつうそこは、「死なないで」になるのではないかとも思ったが(笑)。一回娘を信じてみようと思った。歩けてても、歩けてなくてもどうでもいい。本当の気持ちを話したというだけで、すごく楽になった。歩けなくてもできること、車椅子の私にしかできないことを探し始めた、外に出たくなった。そしてなんとかリハビリ生活を乗り越え、ある程度自分で動けるようになった。たくさんの人と知り合うようになった。町へ出ると今まで気づかなかったことに気づくようになった。行けないところをいけるように。使えないものをつかえるように。そんなことをいつも考えるようになった。

 障がいのある私の立場から、今は「ユニバーサルマナー」の仕事をしている。私の障がいが私に仕事を与えてくれた。障がい=マイナス、歩けない=不幸だと思っていたが、そうではなかったのだ。

 ユニバーサルマナーについて話しておきたい。例えば私が食事をしにレストランに行ったとする。そうするとお店の人は、テーブルの椅子を一つ外して「こちらへどうぞ」と言ってくれる。実はこれは違う。車いすにのっているからといって、車いすにのったまま食事をすることが正しいことではない。私も椅子の種類によって座りたいときがある。もちろん、椅子の形状によっては座れないこともある。車いすは、硬くてリラックスできないという現実もある。だから、まず選択肢を与えて欲しい。その選択肢を与えるために、「どうすればいいか?」と聞いてほしい。これが正しい素敵なおもてなしである。こういうことを伝える仕事をしている。これは、車いすに乗ってはじめてわかったことだ。自分の目線は一メートルしかない。この一メートルの目線だから、視線だから気づくことがある。障がいは私に価値や夢・仕事まで与えてくれた。もしみなさんが落ち込んでどうしようもないとき、ぜひみなさんの近くにいる大事な人に、一言「もうだめだ。死にたい」と話してみたらいい。その方は何かアイディアをくれるかもしれない。聞いているだけかもしれない。でも、「話せた」というだけであなたの何かが変わる。マイナスがプラスに変わるきっかけになる。

 私の生涯は私に夢を与えてくれた。みなさんの前で、私の障がいをプラスにかえて、みなさんの前でたくさん話をできている。今まさに私の夢は叶っている。本当に楽しい時間をありがとう。

 

7.重光あさみ(映像ディレクター・イラストレーター)

 人の心を動かすものに興味がある。みなさんはどのように生きているだろうか?好きなものは?わくわくドキドキするときは?絵を書く、映像を見る、映画を見る、アイディアを考えること、人と話すこと、私はこういうことが好きだ。でも、1人の時間もすごく大事にしている。そんな私がやっていることを紹介したい。

 写真を見て欲しい。大きなショートケーキらしきものがある。これはショートケーキだ。ショートケーキの横に人がいる。何をやっているのか?実はピクニックをしている(笑)。ただ友人を集めてやっているピクニックではない。誰でも来ていいピクニックで、みんな初めて会った人と話すピクニックだ。毎月22日にやっている。ここで何をしているのか?みんなで食べ物を持ち寄ったりしている。一緒にござの上でたわいもない話をしたりしている。

 こんな風に、突然ショートケーキが町に現れたら?ちょっとワクワクドキドキするだろう。そういう気持ちを持って、聞きにきてくれる。「これは何ですか?」「ショートケーキです」「一緒にピクニックしませんか?」。このショートケーキがあることによって、色んな話題が生まれる。コミュニケーションをとろうとしないうちに、自然とコミュニケーションを生んでいる。この場では、本当に何が起こるかわからない。そういう感覚と、それをシェアすることを大事にしている。もしかしたら、FacebookTwitterで拡散されているかもしれない。そういうのも嬉しい。この活動をもう2年半やっている。

 大学を卒業する前に、大学の先生に3つのモットーを挙げろと言われた。モノ作りをする上で大切なものは何か示しなさい、それが言えたら卒業させてやる、ということだった。私は、①ワクワクすること②ドキドキすること③それを共有すること、この3つを挙げた。そこから人の全てが始まっていると思っている。アーティストのミュージックビデオを作るとき、まず自分がそのアーティストのよさを感じ取る。それをどんな風に伝えていくのか?を考えているのが自分のしごと。

 モノ作りをする上で挙げた3つのモットー。これが必要となるのは、モノづくりのときだけではない。自分らしく生きていくためのモットーでもある。私は、1人の時間も好き。なぜか?自分の心の中の声に耳を傾けることができるから。ワクワクすることやドキドキすること、それはいったいどんなとき?そうやって自分に問いかけてみるこういう時間はとてもクリエイティブだ。絵が描けなくても、音楽ができなくても、みなさんは表現者でありアーティストである。ワクワクすることやドキドキすることに耳を傾け、共有してみてはどうだろうか。

 3つのモットーのうち、2つはすぐ出てきた。ワクワクする、ドキドキする。3つ目はすぐに出てこなかった。その時の一本の映像を見た。一本のCM。とても美しいCMだった。説明するのが難しいが、急な坂道のある海外の美しい街で、坂のてっぺんから、ものすごい数のスーパーボールを上から放つCMだ。その映像を見た時にその美しさに感動した。その時に思った。これは誰かがわくわくどきどきする気持ちが、私のもとに届いたということなのだと。届けてくれた人に感謝した。共有してもらったんだ、これが共有するということなのかと思った。ここから3つめのモットーが出てきた。共有することはとても単純だ。自分の大好きのものを話してみる。すると、自分が好きだったものが、こんな見え方があるんだ、こんな風に考える人もいるんだ、と思える。そうやって、自分の好きなものがより深まっていく。だから、ワクワクどきどきする気持ちを惜しみなく発信してほしい。発信して共有したことは必ず自分に帰ってくる。その気持ちを選び続けること。ずっとわくわくドキドキしながら、みんな自分らしく生きていける。ワクワクすること、ドキドキすること、そしてそれを共有すること。それがみなさんの心に響き、誰かの心に届いたら嬉しい。