松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

見なくなった高校野球

その試合は行き詰まる投手戦で,スコアボードにはたくさんの0が並んだ。
どちらのチームの投手も,今大会注目のエースと評されていた。
片方は滋賀県のチームで,もう片方は沖縄県のチームだった。京都府に住んでいたぼくは,だからなんとなく,同じ関西という単純な理由で,滋賀県のチームを応援していた。
特段,野球が好きだったわけではない。
けれども,この前の年にいわゆる松坂世代の大活躍があったこともあって,とりあえず「見たいな」という気分になったのだ。
だから,まだ一回戦のこの試合をテレビで見る気になった。
その試合の雲行きは,中盤で怪しくなった。滋賀県のチームのエースの足に相手の打った打球があたり,少し負傷してしまったのである。
微妙な狂いが生じるとはこのことで,彼はその回に1点を失った。そして,その1点によって負けてしまった。
今大会注目と言われるだけのことはあって,失ったのはその1点だけだったのだが,味方打線が相手のエースを攻めきれず,1-0のスコアで負けたのである。
ぼくはこの試合でたぶん初めて,「スポーツって面白いな」と思った。
投手の足にたまたま打球が当たっただけのことで,少しだけ狂いが生じて,その結果勝敗が決まってしまうという,勝負の妙みたいなものを感じることができたからだと思う。
ちなみにこの大会で,もう一方のチームは決勝まで勝ち上がり,初めて沖縄に優勝旗を持ち帰った。

このときのぼくは,中学1年生から2年生に上がる頃の年齢であったが,以来夢中で高校野球を見ることになった。
このため,当時の甲子園出場校のメンバーは,大体今でも記憶している。
ちなみに高校生になると,中学校の同級生だった友人が,京都の名門の高校で2回も(しかもレギュラーで!)甲子園に出るなどして,ぼくはより一層夢中になって高校野球を見ることになった。
どれにくらい夢中になったかというと,テレビを見ながら自分でスコアをつけるくらいである。
高校野球を観戦しながら,大会における打率や防御率の計算をしているような子どもだった。

考えてみれば,高校野球というのは不思議なスポーツだ。
しょせんは,特定のアマチュアスポーツの全国大会である。
にもかかわらず,試合のテレビ放送があり,選手はマスメディアに取り上げられる。
そんなからくりに気づいてしまったからなのか,出場する選手たちが自分より年下になってしまう頃には,いつしか観戦することが減っていった。
ひょっとすると,年上のお兄さんが一生懸命頑張っている姿に,心を動かされていたのかもしれない。
ともかく,大学に入学する頃になると,あれほど夢中になった高校野球から少し離れて,サッカーを見るようになったりした。
今はスポーツ自体をあまり見ていない。たまにダゾーンでJ2の試合を観戦するくらいで,ワールドカップも見るかわからない。
ぼくにとってのスポーツは,自分のゲームを見つけるまでの仮想的なステージだったのかもしれない。
そんなわけで,高校野球は見なくなった。
その代わりに,今度は観戦者ではなくプレイヤーとして,別のステージに心を注いでいるのだと思う。

ロナルド・ドーア(2014)『幻滅:外国人社会学者が見た戦後日本70年』(藤原書店)を読了

本書は知日家の社会学ロナルド・ドーアが自身の日本のかかわりの歴史を振り返るとともに,近年の日本の体制を批判するものである。
批判の対象としては,「株主主権」のコーポレート・ガバナンス,官僚制度改革,アベノミクス,外交等,偶然にもごく最近になって再びテーマになりつつあるものばかりが挙げられている。

友枝敏雄・浜日出夫・山田真茂留編(2017)『社会学の力:最重要概念・命題集』(有斐閣)を読了

標記の本を読了した。
本書は,社会学の方法,概念構成(ミクロ社会学,メゾ社会学,マクロ社会学),命題構成(メカニズム,トレンド)の3部建てで,社会現象を分析するための「力」を提供しようとするものである。
項目としては70あり,それぞれが2ページから4ページにコンパクトにまとまっているので,辞書的に読むのが良いかもしれない。
また,「これも社会学に位置づくのか」という概念枠組みがいくつかあったのも印象的である(たとえば帰納と演繹など)。

社会学の力 -- 最重要概念・命題集

社会学の力 -- 最重要概念・命題集

高田里惠子(2006)『文学部をめぐる病い:教養主義・ナチス・旧制高校』(筑摩書房)を読了

標記の本を読了した。
本書は,教養主義ナチス旧制高校東京帝国大学独文科などをキーワードに,ドイツ文学者を中心とした文学研究者のメンタリティを描いたものである。
自分にはやや難解であったが,ドイツ文学者が戦中・戦後にどのような葛藤の渦中にあり,いかなる役割を果たした(果たそうとした)かがテーマであったと理解した。

文学部をめぐる病い?教養主義・ナチス・旧制高校

文学部をめぐる病い?教養主義・ナチス・旧制高校

東日本大震災および熊本地震における学生ボランティアの引率について

今日は3.11である。
東日本大震災における学生ボランティアの引率*1というのは,自身の職務の中でも思い出深いものであり,今までも記事にしたことがある。
shinnji28.hatenablog.com
昨年の夏は類似した新しい仕事,つまり熊本地震を中心とした*2学生ボランティアの引率をさせていただいた。
www.kobegakuin.ac.jp
往復はフェリーであり,体力的には東日本大震災よりも楽であった。
できるだけ口を出さず,単にいるだけにしたい(本来はいない方がいい)というのがこの手の活動に対する自分の意見であるが,実際ついてきてしまっている時点で矛盾があり,この葛藤をどうするかは一番迷っていた。
東日本の頃は自身の年齢が25くらいであったので,行動を学生に溶け合わせることによって存在感を消すようにしていたが,この年齢になるとそれができない。
学生の方が自動的に気を遣うからである。今後,基本的に年齢が離れていくしかない中で,どのような関係性を構築するとよいのか,というのは一つの課題であり重要な問いだろうと実感した。

ところで,昨年の熊本の活動と,従来の自身が参加してきた活動とで一番違うのが,一部の活動がメンバーによって継続しそうなことであると思う。
従来は実際に行って,事後研修をして,単発で終わってしまう状態に近かった。もちろん単発で終えようという意図はなく,東日本との関係も現在まで続いているわけだが,主体は基本的には学生というよりも大学であると自分は考えるし,それ自体やむをないと感じている。
ところが,熊本の活動はそうではなかった。
初日の振り返りで,「活動の一回性みたいなものを大事にしたい(このメンバーで何かをすることは二度とないから)」みたいなことを話したわけだが,途中であれは間違いであったと気づいた。
具体的には,阿蘇神社門前商店街の皆様と協働して,阿蘇の魅力を発信しようというプロジェクトが継続しているのである。
この主体は学生であり,おそらくは中心メンバーが卒業したとしても,学生から学生へ引き継いでいけるように育てるのだろう。
自分自身,一緒に阿蘇神社門前商店街のいくつかのお店にお邪魔したが,学生の「受け入れられている感」がすごいと感じられた。
何らかの災害があったとき,学生が役に立ちたいと思うことはよくあるが,普通は歓迎されないことも多い。
それらの気持ちに嘘はなくとも,パワーに欠け,かつ大抵一時的なものに終わってしまうからである。
では,なぜ今回は「受け入れられている感」がすごいのか?もちろん,阿蘇神社門前商店街の皆様のお気持ちが大きいのは一番であろう。
しかし同時に,学生の誠意が本物であるということ,その誠実な人格が伝わるまで粘り強くコミュニケーションをもつ努力をしていることが大きいと感じている。
誠意の現れの一つが,学生でありながら修業年限を超えた長期計画を見据えていることにあるだろう。
一般論として大学生の活動はあくまでも卒業までの時限付であって,卒業後のことまでは考えない。
ではなぜ今回は長期計画を立てているのか。それは基点を自分たちではなく,熊本の復興に置いているからである。
このような目標設定は簡単ではないし,普通はできない。それこそが誠意である。加えて,この誠意を伝えるというコミュニケーションも怠っていない。

この2つの難しいことに粘り強く取り組むことによって,本来では難しいであろう活動を受け入れていただいているというのがぼくの解釈である。
報われるかどうかもわからないことに,純粋な気持ちで取り組むのは,非常にレベルの高いことであって,だからこそ自分などが支援できる範囲はずいぶん限られてしまう。
果たしてこのような行動が支援になりうるのか迷いもあったのだが,せめて自分にできることとして,彼ら,彼女らの活動を紹介しておきたい。
本ブログの累積PVは50万,月間のPVはおおむね10,000~20,000程度である。
この数値にどの程度の影響力があるのか,なんとも言えないが,読者の多くが大学関係者であることは間違いない。
したがってまずはこの行動によって,彼ら,彼女らの活動が大学関係者のみなさまの目に留まることを願う。
そして職場においては,仕事なのか,非仕事なのかに関係なく,自分にできることは継続してやっていきたい*3
asokobe.hatenablog.com

*1:いつも思うことだが「引率」という言葉が好きになれない。自分が担った,あるいは担いたい役割は「率いる」ことでは決してない。

*2:偶然直前に九州の豪雨災害が起きたため,学生の提案でそちらのボランティアを経由して熊本に向かった。

*3:この活動では,同窓会の皆様のご支援も本当に大きいことがご一緒してわかった。この場を借りて感謝申し上げたい。

再課程認定申請書の提出単位について

自分自身がしばらくわからなかったため,困っていました。
自明のことかもしれませんが,提出直前に混乱された担当者の方のお役に立ちますように。

・申請書の単位は法人ではなく,学校である
・学校が併設している場合は1冊,併設していない場合は別冊である
・すなわち,まとめると以下の2パターンになる
 (1)4年制大学(大学院,専攻科,短期大学部,教職特別課程,通信教育課程を含む)で1冊。タイトルは「○○大学再課程認定申請書」
 (2)短期大学(専攻科,通信教育課程を含む)で1冊。タイトルは「○○短期大学再課程認定申請書」
 →短期大学には,大学院,短期大学部,教職特別課程はないと思われるので,このようになる
・各様式は課程の種類ごとに必要(手引きp.24)なので,たとえば,上記(1)において「学部学科等における課程」と「大学院研究科専攻等における課程」を申請する場合,それぞれについて各様式の提出が必要となる
→「学部学科等における課程」と「大学院研究科専攻等における課程」は,仕切り紙によって区切るとわかりやすい

髙木聖・村田雅之・大島武(2006)『はじめて学ぶ社会学』(慶應義塾大学出版会)を読了

標記の本を読了した。
社会学とは何で,いかなる概念から構成されているかを平易に紹介した,(おそらくは)大学生を主要ターゲットとしたテキストである。
特に印象に残ったのは,社会学でいう現代というものが,行き詰まりつつある近代とまだ訪れてはいない未来との過渡期である,という時代認識であった(p.1)。

はじめて学ぶ社会学

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