松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

若ければ若いほど賢いはずなので,若い人から多くを学ぶ

自分の持論として,「若ければ若いほど賢いはず」というものがある。
たしかに,「若くても年寄りみたいな人もいる」「年配でも若い人はいる」みたいな反論,つまり大切なのは実年齢じゃなく,精神だろうという批判はありうるのだが,そういう現実はあるにせよそれでもなお,やはり「若ければ若いほど賢いはず」と考えるのである。
なぜかというと,若いということは,時代の申し子であると考えるからである。
年配の方から見れば「ちょっと感覚が違うな」と思うこともあるかもしれない。
しかしながら,そのような感性そのものが時代とともに育てられたものである上に,これからの時代を作るのはより若い人である。
「自分には見えないものが見えている」と捉える方がむしろ自然だろう。
したがって,おっさんはむしろ若い人から学ぶことが重要である。
職場でいえば,今年新卒で入ってきた方が一番賢い。
来年になれば,来年の新卒が一番賢い。
そのように考えて,より若い人から多くを学びたいと思っている。

そして,このように思う背景には,いくぶん利己的な要素が含まれていることも,正直に告白しなければならない。
つまり,自分はどんどんおっさんになるのであり,自分より若い人が時間とともに増えていくという現状認識を持つ。
そうなると,若い人から可愛がられる,あるいは使われるおっさんにならなければ,完全にじり貧の未来になってしまう。
その前提として,少なくとも今の段階で,若い人に十分な機会を与えられるだけの人物でなければならない。
「人間を育てる」等というのはあつかましく傲慢な話で,凡人には自分で集めてきた機会を,自分以外の誰かに再投資することしかできない。
だから,まずは機会が集約されるだけの人物であること,その上で,その機会を自らのためだけに使うのではなく,より若い人に再投資できることが肝要であろう。

なぜ,若い人にドヤ顔で説教する人がこんなにも多いのか,理解に苦しむ。
近い将来,彼らが世の中を構成し,彼らに顎で使われるようになるのに。
おっさんが若い人に居酒屋でドヤ顔で説教している内容なんて,いつの時代も正しかったためしがないのである(含む自分のこの記事)。
若い人にはそうしたドヤを鼻で笑いつつ,自分たちの説明枠組みで世の中を形作っていくことを勧める。
そのようなメンタルをもたずに生きていると,気づいたら自分自身が若い人にドヤ顔で説教をする人物になってしまうに違いない。

フィリップ・アリエス(杉山光信,杉山恵美子訳)(1980)『〈子供〉の誕生:アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』(みすず書房)を読了

標記の本を読了した。
本書では,〈子供〉という概念はそもそも自明ではなく,中世以降に社会的・制度的・文化的に縁どられてきたものにすぎないことが述べられている。
筆者によれば,17世紀までの中世芸術を紐解くと,〈子供〉の存在は描かれていなかったという。
すなわち,中世までは「子供期」という観念が存在していなかったのである。
では,そうした〈子供〉の概念がいつのどのように誕生したのかというと,教会や貴族といった枠組みの中で,文明的な習俗を望むモラリストに期待される形であった。
このことが,のちに家庭の中の子供といった道徳観念に繋がり,〈子供〉概念が完成したらしい。
所与の概念を疑うこと,あるいはある概念がどのようなプロセスを経て形成されるのか丹念にフォローすることの意義を学ぶことができた。

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

日本教育社会学会編『教育社会学のフロンティア1――学問としての展開と課題』(岩波書店)を読了

標記の本を読了した。
教育社会学会を中心とした教育社会学の戦後の歩みと主要論点が整理されている。
教育社会学の定義(第1章),理論と方法(第2章),近年の課題(第3章)というまとまりで枠づけされており,わかりやすかった。
高等教育研究は教育社会学を大きな源流としており,かつ教師教育も主要に取り扱ってきた。
このことから,いつか体系的に理解しなければならないと思っていた。
「初めて」「体系的に」教育社会学を理解したい人にとっては必読の書と思う。

章立ては以下のとおりである。

序章 日本の教育社会学の七〇年……中村高康

Ⅰ 教育社会学の再検討

1 教育社会学と隣接諸学……広田照幸
2 〈近代化〉としての社会変動と教育……苅谷剛彦
3 政策科学への遠い道……矢野眞和
4 教育社会学と教育現場……酒井朗

Ⅱ 教育社会学の理論と方法

5 教育社会学と計量分析……中澤渉
6 教育社会学における質的研究の展開……北澤毅
7 日本の教育社会学の理論……久冨善之
8 教育社会学と歴史研究……今田絵里香

Ⅲ 教育社会学の新たな課題

9 「貧困」「ケア」という主題の学問への内部化……倉石一郎
10 アイデンティティ概念の構築主義的転回とその外部……仁平典宏
11 国家・ナショナリズムグローバル化……岡本智周
12 少子高齢化社会と教育の課題……木村元
13 「変容する産業・労働と教育との結びつき」へのアプローチ……筒井美紀

まとめと展望 教育社会学の「総合評価」の試み……本田由紀

学問としての展開と課題 (教育社会学のフロンティア 1)

学問としての展開と課題 (教育社会学のフロンティア 1)

土田尚弘・小野滋(2017)『ビジネスマンがはじめて学ぶベイズ統計学―ExcelからRへステップアップ』(朝倉書店)

標記の本を読了した。本書は「誰でも絶対にわかる」(前書きより)とあるように,たしかに素人にもわかりやすい。
特に,りんごやみかん,くじなどの例を「空虚な事例」とばっさり切って,結婚式の招待回数等を用いているのはよかった。
また,尤度関数と事前・事後分布およびパラメータの解釈が一覧になっている表が自分の中ではヒットだった。
しかし,まだまだ勉強が必要である。

ビジネスマンがはじめて学ぶ ベイズ統計学 ―ExcelからRへステップアップ―

ビジネスマンがはじめて学ぶ ベイズ統計学 ―ExcelからRへステップアップ―

どんな仕事も,待遇だけを目当てに働き続けるのは難しい時代だよね

以下のブログが自分のツイッターのタイムライン等で,一瞬耳目を集めていた。
意見としては,「この待遇はごく一部」といったようにバイアスの大きさを指摘するもの,仕事のやりがいには触れずお金に言及することが,無駄に職業を貶めることに繋がるのではないかと批判するもの,等があった。
www.daigaku-syokuin.com
ぼく自身,自分がいくらもらっているのかということと,それに相応しいかどうかに関しては,かなり以前から内省的に考えてきた。
この理由は2つある。
第1に,自分の実力と釣り合わない待遇を得て,そしてそのことに気づかぬまま過ごすことのリスクを,高く評価してきたことである。
第2に,元官僚の宇佐美典也氏が,経済産業省時代に実名で自身の給与をブログに掲載したことに,今もなお尊敬の念を抱いていることである。
このようなことから,ブログで給料を公開したいという衝動にかられたことがあるし,そのことも記事にしてきた。
(全て古い記事なので,今読むとかなりの青臭さを感じてしまうが。。)
(ちなみに給料はツイッターで公開するという中途半端なことをした。。)
shinnji28.hatenablog.com
shinnji28.hatenablog.com
shinnji28.hatenablog.com
冒頭のようなブログが公開され,色々な意見がつくことについて,ぼく自身は前向きに捉えている。
この記事を書いている方も,何らかの問題意識をもっていらっしゃるのだろう。
なぜそう思うかというと,そうでないとこのような記事を公開するのはリスクでしかないからである。
叩かれることもあるだろうし,特定される可能性もある。
単純に待遇に満足しているだけなら,わざわざリスクを負う意味がない。

その上で,10年間働いてきて思うのは,「どんな仕事も,待遇だけを目当てに働き続けるのは難しい時代だよね」ということである。
待遇が良いに越したことはないけど,そのことを理由に働き続けることは難しい。
実際に,このブログ記事と同等かそれ以上の待遇の大学で,若くて優秀な人が辞めているケースは結構ある。
その人たちは当然あほではない。他の職種と比較して待遇が良いないし悪くないことは十分わかっている。
でも辞める。なぜ辞めるのか。そんな業界,「逆にヤバい」とも言えないか。
若くて優秀で,人間的にも優れた人が辞めるのは本当に苦しいものがある。
辞めても,この業界に留まってくれるならいい。それは単なる同業他社転職であり,業界の未来にとって悪くない。
しかし,新卒で就職したのに業界を捨てる人や,転職してきたのに病んで辞める人も,結構いるのである。
自分をはじめとして,それなりに長くこの業界で過ごした人間は,そのことの責任を問われなければならない。
そしてなぜそうなってしまうのか,原因がどこにあって,どうすれば今より良くなるのか,死ぬ気で考えないと先はない。
売り手市場だからといって,「代わりはいくらでもいる」的に考えていて発展するほど,世の中甘くないのである。

ぼくが就職した2008年頃は,「好きな仕事につく」という価値観は避けられていたし,実際自分も避けていた。
「ついた仕事を好きになる」という気持ちをもっていた。しかしこの10年,「好きなことを仕事につく」人は明らかに増え始めた。
多分,自分は間違っていたのだろうな,と最近では思っている。
個人の多様な選好が尊重される段階が拡大して,そしてこの先も縮小することはないだろう。
仕事だって1つではなく,いくつかのことをかけ持つようになるだろう。収入の入り口は分化してゆく。
そうなってくると待遇の優先順位は,マクロに見れば下がることはあっても今より上がることはないと思う。
待遇だけを目当てに働き続けるのは難しい時代。
では,目当ての優先順位はどうなるのか?それは個人個人が,自らの価値観で選択することだ。
これからはそうなるし,今までも本当はそうであった方がよかった。
ぼくはその大きな流れを歓迎している。

【(再)課程認定に関するQ&A その6】業績書に記載する担当科目って,複数の課程で科目持ってたらどう書けばいいの?

今日のご質問は,「業績書に記載する担当科目って,複数の課程で科目持ってたらどう書けばいいの?」というものです。
さっそくいきましょう。

Q1

こんにちは。
××にございます、××大学××課の××と申します。
突然のご連絡で失礼いたします。

昨年から京都地区教職課程連絡協議会の勉強会に参加させていた
だいており、先の10月開催分でも松宮様の説明を拝聴し勉強させ
ていただきました。ブログでの情報ご提供も含め日頃より大変お
世話になり、ありがとうございます。

さて、本日松宮様にお伺いしたい事がありご連絡差し上げました。
内容は11/2(木)に配信された最新の「教職課程認定申請の手引
き【再課程認定】」p56①に記載がある“認定を受けようとする
学科等の教職課程”という文言の解釈についてです。

具体的には幼稚園教諭の課程、小学校教諭の課程といった風にあ
る学科における免許課程の一つ一つを指すのか、それとも当該学
科が持つすべての課程を指すのかについて判断できずにおります。

本学での具体例ですが、質問については以下のような場合の判断
となります。


1.
A教員
児童教育学科 幼稚園教諭課程で 科目Bを担当・・・審査対象
児童教育学科 小学校教諭課程で 科目Cを担当

この場合科目Cも業績書記載対象科目となるのか?

2.
D教員
児童教育学科 小学校教諭課程で 科目Eを担当・・・審査対象
法律学科   中学校教諭課程で 科目Fを担当

この場合科目Fは業績書記載対象科目ではない。(で良いのか?)


業績書の提出対象となった教員が“認定を受けようとする学科等
の教職課程”で別の科目も担当している場合、その全ての科目を
業績書に記載する必要がある事は認識しておりましたが、実際に
教員に作成依頼を行う段階になり、この言葉の解釈について改め
て考えるうちに不安になった次第です。

教職の用語が分かっておらず、非常に基本的な質問となり大変
お恥ずかしい限りですが、ご見識についてお教えいただければ
幸いです。

お手数おかけいたしますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

私の回答は以下のとおりです。

A1

お問い合わせいただきありがとうございます。

> 具体的には幼稚園教諭の課程、小学校教諭の課程といった風にあ
> る学科における免許課程の一つ一つを指すのか、それとも当該学
> 科が持つすべての課程を指すのかについて判断できずにおります。
私は後者だと思います。

ご質問の趣旨を私なりに解釈すると,課程をまたがって複数の科目を担当していた場合,
どのように記載するのかということになるでしょうか。
もしも,課程の一つ一つを指す場合,教員の業績も課程ごとに記載することになりますよね。
しかし,今回の様式はそうなっていないので,上記のように考えます。

その上で,科目の記載順をどうすればよいかということについては,
「新旧対照表の記載順」(p.58,『手引き【再課程認定】ver.H29.11.2 送付版【見え消しなし】』),
ということになるように思います。

これに対して,追加の質問をいただきました。

Q2

××大学××課の××です。
大変お世話になっております。

早速お返事をいただき大変恐縮です。
本当にありがとうございます。

様式から判断する考え方で良く理解することができました。
また、質問の趣旨が分かりづらい形となっておりましたが、汲み
取っていただき、記載順についても手引きの該当ページをご教示
いただきありがとうございました。

なお、重ねてのご確認で恐縮ですが、様式が個人で1式しかない
ことからすると先のお尋ねメールに記載した事例2の場合も学科
・課程をまたぎ全ての記載するという認識で良いのでしょうか。

念のためお伺いをさせていただきました。
再度お手数をおかけして申し訳ございませんが、ご教示のほど
よろしくお願い申し上げます。

これに対する私の回答は以下のとおりです。

A2

事例1,2も,課程をまたがっているという意味では同じです。
ですのでたとえば,お示しの学校種の例以外にも,よりありうる例として,
中一種免(社会),高一種免(地歴),高一種免(公民)のように,
免許教科で複数の科目を担当していた場合も同様に考えられると思います。

要するに,その先生が担当する科目が申請する課程に入っていたら,全部書けということです。
たしかに,学校種を超えた複数の課程を同時に申請することは少ないですし,ある意味再課程認定で,おや?となるケースかもです。
一方,社会,地歴,公民のように近接領域でまたぐことは当然想定されますが,学校種またぐことってそんなにあるのかなーと思いつつ。
幼小免詳しくないので,そのあたりのリアリティを自分は持ってませんでした。