松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

堂場瞬一著『警察回りの夏』(集英社文庫)を読了

異常に警察小説が読みたくなって読了した。
警察回り担当の新聞記者がある事件を追っていて,より大きな圧力に飲み込まれてしまう話です。

警察回りの夏 (集英社文庫)

警察回りの夏 (集英社文庫)

佐藤綾子著『小泉進次郎の話す力」(幻冬舎)を読了

最近,自分がプレゼンを舐めすぎているなと感じていた。
つまり,ほとんど直前まで準備せず,出番の30分前くらいからどう話すか考え始めるようなことを最近はしていたからだ。
これには理由があって,学術の場だと結構,スキルに関係なく中身を評価してもらえるという安心感による。それ自体よくないことなのだけれど,そのことは非学術的な場でより先鋭化される。
最近では非学術的な場をあまり与えられておらず,再度自分の能力を見つめ直す必要性を感じていたのである。
そのこともあって本書を購入,読了した。
自分が無意識にやっていたようなことも理論づけされていて,大変面白く読んだ。
たとえば,その土地に合わせた話を冒頭にし,話す側と聞く側の溝を埋めるのは「ブリッジング効果」。
聞き手を主役に変える話法,原稿を見ない,間を置く,といったものである。

また,本書を読んでまったく自分の中にはなかった視点も得た。
それは,演説の最後に格調高い理念を示す,というものである。ただ筆者も,これは日本人には難しいと補足している。
本書ではオバマの演説を例にあげているが,最後に聖書を引用するというのは日本人にそのままあてはめることができないからだ。
では日本人はどうしているのかというと,歴史的事実やエピソードで聖書の代用をしているとのこと。
しかしそれでも聖書にはかなわないので,難しいという話である。
ここまで書いてきて思ったが,これも自分はやっているかもしれない。
意図はしていなかったが,最後に格調高いことは言いがちな気がする。
格調といっても,聖書の引用とか,歴史的エピソードの引用とかではなくて,自分の中での理念のようなもの。
たとえば,課程認定等の話題提供では,私立大学としてのプライドをもって,政策に受動的に応答するのではなく,積極的な取り組みを開発し,政策に逆輸入するという気概をもちたい,とか。
あるいは,京都の大学職員フォーラムで話題提供を行ったときは,冒頭で京都の私立高校出身であることを伏線として,最後にその母校にあったフランスの詩人の石碑を引用する,とか。

とはいえ,無意識にやるというのはやはり微妙で,ある程度言葉で理論づけられて,わかった上でやった方がいい気がした。
しかしそうすると,自分のプレゼンが言葉に規定されてしまって,余白のようなものがなくなってしまうな,という疑問ももった。
本書の購読では,このようなことを考える機会となった。

小泉進次郎の話す力

小泉進次郎の話す力

今井むつみ著『学びとは何かーー〈探究人〉になるために』(岩波新書)を読了

標記の本を読了した。この本はすごい。
筆者は認知科学言語心理学の研究者で,「学ぶとはどういうことか」ということを,きわめてわかりやすく解説している。
前段では,「そもそも知識とは何か」という問いから始まり,記憶とはどう違うのか,知識の体系はどうなっているのか,といったことについて,主に子どもが母語を習得する過程を通じて解説する。
後段では,前段で示された「知識とは何か」を前提として,それらを極めるにはどうすればよいのか,が解説されている。
端的にいえば,熟達者の最大の特徴は臨機応変であること,熟達者から超一流になるためには,臨機応変の延長線上の創造性があることが示されている。
少し長くなってしまうが,非常に印象的だったので引用してみたい。
まず熟達者についてである(pp.116-117)。

ただちに本質を見抜く力、臨機応変な応用力、普通の人には見えないものを見分ける識別力と、いま目の前には見えないモノ、コトの究極の姿を思い浮かべる審美眼。このような能力の背後にあり、すぐれた判断や行動を可能にしている心の中の判断基準を認知科学では「心的表象」という。この心的表象をより洗練された、よりよいものに育てていくことが熟達の過程なのである。

次に,超一流についてである(pp.199-200.)。

 第4章に書いたことの繰り返しになるが、一流になる人々は、どういうことができるようになりたいのか、一流のパフォーマンスは何なのかを具体的にイメージできる。つまり、自分の中で理想とするパフォーマンスが心の眼で「見える」。そして、そこに向かって自分が何をすべきなのかを考えることができる人々なのである。さらにそれを突き詰めると、的確な目標を持てるということは、
 ●その分野の超一流の人のパフォーマンスがどのようなものなのかを理解できる。
 ●いまの自分がどのくらいのレベルにあって、超一流の人たちとどのくらい隔たりがあるかわかる。
 ●その隔たりを埋めるためになにをしたらよいのかが具体的にイメージできる。
ということだ。自分が超一流になり、自分より上の人がほとんどいなくなっても、自分の中で、いまよりももっと上にいる自分、目指すべきパフォーマンスがイメージできる。自分が(そして他の人も)まだ到達していない地点が見え、そこに至る道筋が見える。それが超一流の熟達者と一流の熟達者の違いである。ここでいう「目指すべきパフォーマンス」や「そこに到達するための具体的な道筋や方策」が見えるようになるというのは、その分野の学習での多大な経験と深い知識が要求されることだ。

「超一流と一流の違い」などと言われるともはやわけがわからない部分もあるが(笑),こういったことについて科学的に分析されている,しかも読みやすい新書というのは大変貴重なように思う。
ひょっとすると専門の科学者の世界では当たり前のことなのかもしれないが,普通の人がそういうところにアクセスするのは難しい。
また一般的には,このような話は「才能」「センス」「努力」といったふわっとした言葉だけで語られてしまい,科学的な裏付けが無視される傾向にあると感じる。
その双方をつなぎ合わせるという点で,めちゃくちゃ面白かったし,貴重ではないかという感想をもった。

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

小川正人著『教育改革のゆくえー国から地方へ』(ちくま新書)を読了

他大学の先生にツイッターでおすすめされて読了した。
帯には,センセーショナルに,「2000年以降、激動の理由 食いモノにされる教育行政」という言葉が踊っている。
本書では,55年体制にあって政府自民党が教育政策をどのように決定してきたのか,文部科学省の組織としての特質はどのようなものか,といったことを導入として,第2章からは,90年代からはじまった
「政治主導」についての解説へと進む。
端的にいえば,従来重視されてきた局を単位とする積み上げ型が旧システムとされ,集権化してゆく過程を描く。
また,そういったマクロな話に止まらず,第3章では義務教育における行財政システムが三位一体改革から受けた影響について,かなり詳細に分析している。
いわゆる地方分権改革については別の書籍で読んだことがあるので,大いに頭に入ってきた。

教育改革のゆくえ ――国から地方へ (ちくま新書 828)

教育改革のゆくえ ――国から地方へ (ちくま新書 828)

チャールズ・E・リンドブロム/エドワード・J・ウッドハウス著,藪野祐三/案浦明子訳『政策形成の過程ー民主主義と公共性』(東京大学出版会)を読了

標記の本を読了した。
本書を読んだ理由は,リンドブロムの提唱した「漸増主義(インクリメンタリズム)」について,基本的な確認をしておきたかったからである。
インクリメンタリズムというのは,端的にいえば政策形成過程において,すべての利害関係者の合意をとりつけることは不可能であるため,「少しの変更を繰り返す」ことにより,政治的に実現可能な決定を重ねていくことを指す。
わかりやすいのは予算で,予算額をちょっとずつ増やすことで改善を重ねる(ことにする)というものである。
このような方法の問題点は,現実解が最重要なので,抜本的な改善は不可能ということである。
まあこれは良いとか悪いとかではない。
それで,インクリメンタリズムは行政学の主要概念のようなのだが,少なくともこの本では中心的に扱われいない(と,自分は感じた)。
政策形成過程に広く焦点をあて,その中の一部のようにしか見えなかった。
このため,当該概念にあたるためには,たぶん英語論文にあたらないといけない。なので,以下にメモを残しておく。

Charles E. Lindblom, "The Science of ` Mudding Through '," Public Administration Review 19 (1959): 79-88


政策形成の過程―民主主義と公共性

政策形成の過程―民主主義と公共性

グレアム・T・アリソン著,宮里政玄訳『決定の本質ーキューバ・ミサイル危機の分析』(中央公論社)を読了

標記の本を読了した。
第2版があるようだったが,ひとまず第1版を読んだ。
結論からいえば,読んだ感想は,難しい!というもの。
主に自分の勉強不足のせいで。世界史の勉強を真面目にしていなかったことが悔やまれる。
キューバ危機の文脈がわからないと,読むのに時間がかかるし,いまいち頭に入ってこない。
構成としては,アリソンの3つのモデル,すなわち,
1.合理的行為者モデル
2.組織過程モデル
3.政府内政治モデル
の3つについて,それぞれモデルの説明と実証分析を行うというもので,わかりやすい。
おそらく本書の示唆で重要なことは,これらのモデルが第1モデルの不足を第2モデルが補い,さらにそのまた不足を第3モデルで補うという形で発展してきたのは事実であるが,どれが一番優位ということはなく,互いに不可分であるというところにあると思う。
リアリティを追求した結果モデルが深化したと。しかしそれは元々のモデルを切り捨てることとは異なっている。
また,そういったモデル間の不可分な関係をおさえた分析が課題であることが,まさに最終章で示されていた。

決定の本質―キューバ・ミサイル危機の分析

決定の本質―キューバ・ミサイル危機の分析

寺沢拓敬著『「日本人と英語」の社会学―な​ぜ英語教育論は誤解だらけなのか」(研究社​)を読了

標記の本を読了した。つらつらと感想をば。

本書では,世の中でまことしやかに信じられている言説,たとえば「日本人は英語下手」とか,「女性は英語好き」であるといったものに対して,データ分析にもとづいて批判的考察を加えている。
「日本人は英語下手」であれば,たしかに日本人の英語力は平均的には低いのは事実であるものの,実は東アジアや南欧と同レベルであることや,「女性は英語好き」であれば,意欲の点では男性と比べて顕著な傾向ではないことなどが実証されている。
本書は2つの点で勉強になった。
1つは,一般的に世の中でよく言われていること,あるいは,所与のものとされがちな近年の政策動向について,批判的な視点を加えるというアプローチの重要性であり,その面白さである。
自分は英語教育や英語をめぐる言説について,そんなにたくさんの興味があるわけではないが,「日本人は英語下手」「女性は英語好き」といった言説は,素人でも「たしかにあるある」と思えるレベルのものである。
その際,まずはその「よく言われていること」を定義によって同定したのち,批判を加えていることが重要であると思われる。
なぜなら,素人でも「たしかにあるある」と思えるレベルのことは,普段なんとなくそう感じている,みたいな話で,曖昧だからである。
それを定義づけしたのち,データによって批判されると,納得感が深まる。
もう1つは,データに基づいた実証である。
全てが2次分析であり,筆者自らが収集したデータはない。それでも,ここまでの検証が可能ということがわかる。
やはり,使うことのできるデータは2次利用する(さらにいえば,2次利用を前提に調査が行われる)ことが,時間的・金銭的コストを節約するのに大切であると実感した。
加えて,本書は統計のわからない人への配慮がなされており,私のような素人でも統計分析の過程がよくわかる。

日本人と英語に関していえば,やはり「英語が必要だ!」と言えば都合の良い勢力が多いと思われるため,このような批判的知見はおもしろい。
また,やや飛躍するが,本書を拝読しながら,「大学で英語を勉強する意味ってなんだろう?」ということを考えていた。
本書の第三部では,「これからの社会人に英語は不可欠」言説が検証されている。これはまあ大学で学習させる場合によく使われる言葉であろうと思う。
結論は,仕事において英語を激しく使う人は,未だせいぜい数%であり,さらにいえば「英語ができると収入が増える」ことも有意とはいえない,効果があったしても限定的です,というものである。
また同時に,「英語の必要性は高学歴者・ホワイトカラー識者・正社員・大企業の社員で特に高くなる」とされている。
ではそうしたときに,威信の低い大学で英語を学ぶ意味ってなんだろう?
就職活動の一貫として英語力をバシバシ鍛えている大学もあると思うが,威信の低い大学で英語力を鍛える→高学歴者に対抗して大企業に就職できる,といった因果関係は成立するだろうか?
そのようなことをつらつら考えていた。

「日本人と英語」の社会学 −−なぜ英語教育論は誤解だらけなのか

「日本人と英語」の社会学 −−なぜ英語教育論は誤解だらけなのか