松宮慎治の憂鬱

このブログの情報は古く,今後更新しませんので,特に教職課程関連の参照元とすることは避けていただければと思います。ご迷惑かけます。2023.2.19

誰も興味のないことだと思いますが、ブログの毎日更新は諦めました

誰も興味のないことだと思いますが、ブログの毎日更新は諦めました。
正確には、1日1記事更新ですね。それを諦めます。
まあ、これまでに2回ほど、昨年の3月と9月に数日間途切れているので、実質不完全だったわけですが。
仕事の息抜き等に見ていただいていた方、本当に申し訳ないです。

理由は単純で、時間的•精神的余裕がないからです。
当初は、1日1記事更新することによって、「ヒマだからやってる」という批判をかわす、という戦略もありましたが、もはやそれすら難しくなりました。
それから、この4月から、広島の博士課程前期を修了して、後期にそのままお世話になることになりました(手続きに漏れがなければ)。
快く了解いただき、同時に学長決裁までくださった職場には感謝しています。
はっきり言って、今の仕事なら博士号は不要だと思います。
などというと、また別の界隈から殴られるかもしれませんが、修士はともかく、博士なんてなんで取りに行くの?と言われても仕方ないでしょう。
と、自分では思っていますし、実際大学のトップマネジメントに対する悉皆調査の結果で、事務職員の学位取得に関して、修士までは積極的だが博士になると一転消極的という知見もありました。

にもかかわらず自分はあえて進学するわけですが、修士の延長、この2年間を継続する、という感覚です。
修士の2年を終えて、自分の中で十分な達成感のようなもの、何か1つやりきったというような感慨を得ることができませんでした。
それは研究という意味でも、自分の能力達成という意味でもです。
むしろ満足できない、ダメなところばかりが見えてしまって、後悔しているとすら言えます。
よく聞かれるのは、大学の教員になるのか?ということです。
これについても、かつては無用な忖度をされたくないと思って、いちいち反論していたことがありました。
しかし、今の自分は足元しか見ていなくて、足元の一歩にベストを尽くすことだけで、「未来の何かのために」といった考えは持てない、というのが正直なところです。
先のことやメリットなんて考えてしまったら、東広島に通い続けることはできないです。

そうしてやりたいことをするには、何かを捨てなければいけません。
人からよく思われたいという繊細さや、日々の私生活の満足など、次々に捨てていかないと持ちません。
だから、次はブログの更新を捨てることにしました。

【資料提供】大学行政管理学会 大学改革研究会 2016年度第8回ワークショップ「ともに学ぶ!実務者のための教員免許状更新講習」

shinnji28.hatenablog.com
こちらのワークショップについて,自身の報告内容をアップします。
別途配付資料がご入用でしたら,個別にご用命ください。
お忙しい時期に参加いただいたみなさま,場を与えてくださったJUAM大学改革研究会の関係者のみなさま,会場を貸してくださった名城大学さまに感謝します。

www.slideshare.net

小方直幸編『大学から社会へ―人材育成と知の還元』(玉川大学出版部)を読了

標記の本を読了した。
小方先生の集中講義を受けられたので,その際に直接指導いただきつつ拝読できた。

大学から社会へ 人材育成と知の還元 (リーディングス日本の高等教育 第4巻)

大学から社会へ 人材育成と知の還元 (リーディングス日本の高等教育 第4巻)

矢野眞和・濱中淳子・小川和孝著『教育劣位社会―教育費をめぐる世論の社会学』(岩波書店)を読了

標記の本を読了した。
去年の12月に発売された新刊。
たしか,去年の高等教育学会で濱中先生がご報告された内容のはず。
「キレキレやな~かっこいいな~」と感じつつ拝見していたのを覚えている。

本書の中で,一番社会に知られるべきなのは,第8章の矢野先生による,
高等教育に対する資金配分における逆進性言説に対する批判であろう。
すなわち,「大学教育は、裕福な者に消費されるから、大学教育費を税金で賄うと裕福な者が得をする」という考え方(p.179)を批判する。
具体的には,実は無償化されれば低所得者層の進学率が上がり,むしろ累進的であるということをエビデンスを用いながら論じている。

教育劣位社会――教育費をめぐる世論の社会学

教育劣位社会――教育費をめぐる世論の社会学

浅田次郎著『黒書院の六兵衛(上)(下)』(文春文庫)

標記の本を読了した。
江戸から明治に時代が遷移するときの江戸城無血開城の際,ただひらすら居座り続けた旗本がいたという話。
読了したあとになって,後ろの方に江戸城内の見取り図がついていたことに気づいて残念。

英語を読むときのコツに関する自己暗示

ぼくは昔から英語が苦手である。
もう少し正確にいえば,英語を勉強することが苦手で,この結果として英語が苦手になっている。
言語なんて時間をかければ誰でも一定レベルまでは上達するわけで,自分はそれだけの時間をかけるという労力を節約してきた。
実は大学受験までの勉強では,さして英語がわかっていなくてもなんとかなったりする。
センター試験なんかも,ぼくのときですら裏技的問題集が出ていたりして,そのとおりやれば点数がとれたりした。
小手先でちょこちょこっとやって,それで済ませる。今思えばなんて愚かなことをしたのかと思っている。
そういう反省がある中,最近は本当に苦労している。
とりあえず英語が全然読めない。時間がかかる。いわんや英語論文をや。
しかし,時間をかけるしかないのはわかっているので,できない自分を嘆きながらなんとかやるしかない。

そうしたときに,どんな文章が読めるのだろう?と楽しみにするメンタルを持つと,なんとなく続くような気がしている。
具体的には,読み始める前に,「楽しみだなー」と心の中で思ったり,読み進める中で,「何が書いてあるんだろう?」とワクワクしたりするのである。
本当はこれは,無理やりそう持って行っているだけの話で,心から思えているわけではないのだが。
そうでもしないと,全く読めない。
また,苦手意識もあるけど,要するに普段の仕事や生活の中で英文を読む必要性がないので,勉強できないのだな,という気持ちもある。
「研究に必要」というので頑張らないといけないけど,時間の使う場所はやはり仕事が大きいし,その次に生活は生きていくためにしないといけないし,どうしてもその2つに勝つことは難しい。
なんだかんだいって上達するには,「生活に必要」「仕事に必要」のどちらかで,今の自分にはそのどちらもない。
なんとかして,生活か仕事のどちらかに英語を組み込みたい。
そういう意味では,自分の場合は留学生とかかわる部門で働けば,できるようになるのかもしれない(全く考えたこともないけど)。
あるいは,よく言われることだが英語圏の人と仲良くなるか(いろいろな意味で)。
もしくは,最近忙しくてできていなかったのだけれど,昼休みは必ず図書館で英語論文を読む,電車の行きかえりはトイックの勉強,というように,生活の中に割り当ててしまうか。
これは結構疲れるのだが,ある一定のレベルになるまで(楽しくなるまで)は我慢するしかないのだろうか。